第45章
 月夜に舞う死神

 マルコ達が月に来てから、しばしの時が流れた。
 その間にも世界は大きく動いていた。膠着していた戦局を動かすべく、各勢力が重い
腰を上げたのだ。
 ザフトに呼応して独立しようとしたユーラシア西部に対して、地球連合は三機のデス
トロイを送り込み各都市を破壊。しかしザフトとディプレクターの共闘によって阻止さ
れた。
 プラントのデュランダル議長は連合の行いを批判し、その影に存在する組織ロゴスの
存在を世間に公表した。戦いに疲れ果てた大衆はナチュラル、コーディネイターの区別
無くデュランダルを支持し、ロゴスの幹部である政治家や実業家を非難。各地でロゴス
狩りとも言うべき暴動が発生した。
 ディプレクターはこの騒動に対して中立を表明したが、ザフトはこれに不満を抱いた
ようだ。両軍の衝突も噂されている。
 世界が、時代がうねり始めていたが、月は平穏だった。少なくとも表向きは。
 いや、平穏ではなかった。この頃、月では奇妙な事件が起きていたのだ。
 連続殺人。被害者は軍人、商人、政治家に評論家といずれも高名な人物ばかり。もち
ろん警備されていたが、犯人はその警備網を潜り抜けて標的に接近、誰にも気付かれる
事無く殺していく。
 手口も様々だった。地球やプラントとの共存共栄を訴えていた政治家は狙撃銃で頭を
撃ち抜かれ、彼を支持していた軍の将校は胸を刃物で抉られ、スポンサーだった商人は
首を絞められて窒息死。穏やかで冷静な口調を売りとする評論家は、観光用の人工湖に
突き落とされて水死体となった。
 警察はこの四件の殺人事件を同一犯の手によるものと判断した。殺害方法は四件とも
違うが、被害者の四人が親しい仲だった事、そして鮮やかな殺しの手並みから、何者か
に雇われた殺しのプロによる犯行と考え、連続殺人として捜査した。
 この事件に月の人々は震え上がった。平和を訴える者達が殺されたのは、戦争を願う
ロゴスやリ・ザフト残党の仕業では?という噂が流れ、いよいよ月にも戦争の影が近づ
いているのだと不安を抱かせた。
 だが、大衆とは違う意味でこの事件に注目している者達がいた。



「不愉快だな」
 四件目の殺人が書かれた新聞を読んだゼノンは、そう言い切った。人が殺された事が
不愉快、ではないようだ。
「以前の三人といい、今回殺されたこの男といい、いずれも私の計画の障害と思われた
者だ。それがなぜこうもタイミングよく、次々と殺される? 不自然だ」
「確かに不自然ですが、我々にとっては好都合です。この四人がいなくなった事で我々
の計画は容易に進められるかと思いますが」
 コートニーの言うとおりだ。今回の事件で殺された四人は、いずれも月は地球やプラ
ントとは共存すべき、と考えており、月に独立国家を建国するというゼノンとは相反す
る者達だ。戦争は避けるべきだという彼等の考えには賛同する者も多く、ゼノンの計画
の障害となっていた。
 指導者とも言うべきこの四人が消えた事で、共存派とも言うべき者達の勢いは衰える
だろう。この事件を好機だと考えるコートニーは、決して間違ってはいない。
 だが、
「コートニー」
 ゼノンはそうは思っていないようだ。コートニーを見るその瞳は、冷たい怒りに満ち
ている。
「この事件は私の指示によるものではない。私の知らぬところで、どこぞの馬鹿が勝手
にやった殺人だ。それに乗じて事を進めよとは、お前はこのゼノン・マグナルドに恥を
かかせるつもりなのか?」
「! も、申し訳ありません、軽率な発言でした」
 頭を下げるコートニー。彼はゼノンの性格を、まだ完全には理解していなかった。
 良きにせよ悪しきにせよ、ゼノンは自らの力で戦い、道を切り開いてきた。誰かに用
意された道を歩くのではなく、自力で道を作り、時代を動かす。自分の力を信じて進む
事こそゼノンの誇り。他人に「さあどうぞ」と与えられた道を進む事など、彼の誇りが
許さない。
「この事件は放ってはおけないな。犯人が捕まらなければ、後世の者には月を独立させ
る為に私が殺したと思われる。そしてそれはムーン・キングダムへの疑惑となり、私の
後を継いで王となるミナへの疑惑となる。それは絶対に許せん」
 犯人への怒りを露にするゼノン。人を殺した事に対する怒りではなく、自分の誇りと
夢を傷付けられた事への怒りである。この男、傲慢にして冷酷。
「ゼノン様、この件は私にお任せください。警察よりも先に犯人を捕らえ、然るべき罰
を与えます」
 コートニーが捜査に名乗りを挙げた。先程、ゼノンの気持ちを読み違えた失態を補う
つもりだ。が、
「お前には仕事があるだろう。私達の計画に賛同する者達との会合に、資金の調達や情
報管理、MSの新装備のテスト。この上、まだ仕事を増やすつもりか?」
「はい。ゼノン様の為ならば、この体をすり減らしてでも」
「やめろ。お前は私の計画には欠かせない人材だ。無理をしてお前に倒れられたら、計
画が頓挫するかもしれん。そんな事は絶対に許さん。人間には適度な休息も必要だ」
「ゼノン様……」
 コートニーの体調を心配してではなく、計画を進める為に休ませる。実にゼノンらし
い『思いやり』であるが、コートニーは感動していた。この傲慢さと冷酷さ、そしてわ
ずかな暖かさがあってこそ我が主、ゼノン・マグナルドなのだ、と。
 そんなコートニーの気持ちなど知るつもりもないゼノンは、ある男の顔を思い浮かべ
ていた。
「この事件については、あいつ等に任せよう。どうやらもう動いているらしい。私が頼
む前に動くとは、あいつ等もこの事件に関しては興味があるようだな。いや、心当たり
があるのかもしれんな」
 ならば彼等が適任だろう。そう判断したゼノンは、この連続殺人事件を友に任せる事
に決め、自らの計画を進める事にした。コートニーを側に寄せて、月を独立させる大決
起の詳細について話し合う。



 月に着いてしばらく経つが、ロウとユナはまだ艦から出ていなかった。二人ともMS
の整備や艦の修理、OSの調整などで忙しいのだ。
 今日もほとんどのメンバーが町に出ている中、二人は留守番。アークロイヤルの格納
庫でロウはレッドフレームの、ユナはオーバーデスフレームの整備をしている。
「はああああ……。マルコ君達は仕事があるって出かけたし、プロフェッサーさんや樹
里さんは食料の買い出しに行っちゃったし、剛馬さんは酔っ払って寝ちゃったし。カテ
リーナさんが出て来てくれれば助かるんですけどねえ」
 とグチるユナ。マルコの母カテリーナはフィオーレ家の栄光の歴史が虚偽だと分かっ
てから、ずっと自室に引き篭もっていた。息子マルコの説得にも応じず、食事もほとん
ど口にしていない。
「大丈夫なんでしょうか? 無理にでも引きずり出した方がいいんじゃ…」
「やめとけ。本人にその気が無いなら引きずり出しても、また引き篭もるだけだ」
 レッドフレームの整備をする手を止めず、ロウが言った。確かに彼の言うとおりだ。
「これはあの女の心の問題だ。自分の問題は、自分で何とかしないとダメだ。辛いかも
しれないけど、俺達は信じて待つしかないんだよ」
「……そうですね、ロウさんの言うとおりだと思います」
【正確には『プロフェッサーの』言うとおりだがな。他人の台詞を無断で拝借するのは
良くないと思うぞ】
「バラすなよ、8(ハチ)。俺もプロフェッサーの言うとおりだと思ってるから、別に
いいんだよ」
【そういうものなのか? ふむ、人間の関係とはまだまだ分からない事が多いな。分か
らないと言えば、例の事件もよく分からん。私は犯人はゼノンの一味だと思っていたの
が、マルコは違うと言った。私とマルコのどちらが正しいのだ?】
「マルコだな」
【即答か。ロウ、その根拠は?】
「俺はゼノンって奴の事はよく知らないが、マルコの事は知っている。あいつは信じら
れる人間だ。マルコが違うと言うなら、マルコを信じている俺もゼノンの事を信じてや
るのが筋ってもんだろ」
【うーむ、分かったような、分からないような】
「ゼノンの事を良く知っているマルコが、ゼノンは犯人じゃないって言うんだ。それに
この事件、どうにも嫌な感じがする。ユナもそう思うだろ?」
「はい、この事件はただの殺人や暗殺事件とはちょっと違う気がします。黒い泥みたい
なのがまとわりついているような、とっても嫌な感じがするんです……」
【抽象的な意見だな。コンピューターである私には、あまり理解できない】
「ユナだけじゃない、夏にフィアにエレア、イノリも同じような感じをしているらしい
ぜ。樹里とプロフェッサーもな」
【女性ばかりだな】
「こういうのは男より女の方が勘が鋭いからな」
【第六感というやつか。ますます私には理解できないな】
 勘に頼った考えに、人工知能である8(ハチ)は戸惑っているようだった。しかしロ
ウはマルコの考えに賛同していた。こういうおかしな空気が流れている時は考えるより
先に行動した場合の方が、いい結果を生むのだ。
『まあ犯人の目星は大体つくけどな。ゼノン一味じゃないとすれば、証拠を全く残さず
に四人ものV.I.Pを殺せる奴なんて、今の月には一人しかいない。いや、一機と言
うべきなのか? それとも四人か?』
 迷うロウの推測は当たっていた。そして、マルコも同じ考えだった。月の闇に潜む悪
魔が、いよいよ動き出したのだ。



 月の独立に反対すると思われる四人の人間を殺した犯人の行方は、警察の懸命な捜査
にも拘らず掴めていない。事件はこのまま迷宮入りするのでは?と思う者もいた。
 だが、マルコはそうは思わなかった。犯人の目的が『月の独立に反対する者の殺害』
だとしたらもう一人、殺さなければならない人物がいる。犯人は必ず、あの人物を狙う
はずだ。そう思ったマルコは、密かにその人物を監視する事にした。
 キョウシガ・ヌリボトケ。先日ゼノン達によってリ・ザフト残党の手から救出された
が、彼の月独立計画には反対している男である。
 この男、歯に衣着せぬ言動をするので敵が多く、また先日の事件の教訓もあり、身辺
警護を強化していた。常に二十人以上のガードマンに守られ、移動する際の車も特殊な
装備と装甲が施された特注車。似た人物を探して、影武者まで作ってしまった。
 個人レベルでここまでやるか、と思う程の警備体制だったが、キョウシガ本人は安心
していなかった。信頼していた運転手を殺され、誘拐されたショックは、周りの者が思
う以上に大きかったらしい。
 マルコはキョウシガの身辺警護をする事にした。この申し出をキョウシガは、あっさ
り受け入れてくれた。優れたMSパイロットであり、戦士としても一流の者が多いマル
コ達に守られる事で安心したらしく、リラックスした雰囲気を漂わせている。
 この日の夜、キョウシガはテレビ局での収録を終え、特注の車で自宅に帰る。キョウ
シガの車にはマルコと夏、シュウが同乗し、運転はフィアが行なう。ジョナサンとトロ
ヤとレオとイノリ、そして「暇だから」と言って着いて来たアニー・コーネリアは後続
の車で後を追う。
「どうでもいいけど、シュウをあっちに乗せたのはマズいんじゃない?」
 アニーが気の無さそうな口調で言った。運転しているジョナサンは振り返らずに、
「あいつはMSの腕はまだまだだが、体術はなかなかのものだ。体も丈夫だから二、三
発ぐらいなら玉が当たっても大丈夫だろう」
「弾除けの盾って事? 酷いわね」
「ボディガードをするんだ。それくらいの覚悟はしているさ。しかしお前さんがあいつ
の事を心配するとはな。兄貴に捨てられたのを慰めてもらって、情が移ったのか?」
「冗談。それに、私が言っているのはあいつの能力についてじゃないわ。あいつとキョ
ウシガがケンカするんじゃないかって事よ」
 キョウシガはディプレクターに対し、批判的な意見を述べていた。国家でもない一組
織に軍事力を与えるのは危険すぎる、直ちに解散すべし、とテレビに出る度に言ってお
り、ディプレクターの面々の神経を逆撫でしていた。
 一方、シュウ・スメラギはガチガチのディプレクター至上主義者である。不安定極ま
りないこの世界の平和を保つには、ディプレクターのような国家の枠組みに捕らわれな
い組織が必要だと考えており、その熱意故にトラブルを起こす事も少なくなかった。マ
ルコ達の仲間となり、ディプレクターから少し離れた立場となった今でも、彼の考えは
変わっていないはずだ。
「あの二人を一緒に乗せるなんて、ケンカしろって言ってるようなものだわ。命の恩人
であるゼノンの仲間、って事でキョウシガは私達を信頼しているみたいだけど、その信
頼があっさり崩れるかもしれないわよ。こっちの人を乗せた方が良かったと思うけど」
 アニーは隣に座っているレオに眼を向けた。
「あー、そりゃ無理だ。こいつはお姫様のお守りだけで精一杯みたいだからな。なあ、
レオよ?」
「……ノーコメントさせていただきます。あと、少し静かにしてください」
「はいはい、すいませんねえ」
 レオの返事に苦笑するジョナサン。レオの膝の上にはイノリが座っており、すーすー
と寝息を立てている。体力が少ないのに一日中外を歩き回り、疲れたのだろう。
 助手席に座るトロヤはこのやり取りを聞いた後、前を走るキョウシガ車に眼を向け
る。気のせいか、車からは険悪な空気を感じる。ジャングルにいた頃何度か見た、大蛇
と猛獣が戦っている場のような感じ。
『おいおい、ホントに大丈夫なのか?』
 大丈夫ではなかった。キョウシガが乗る車の中は、一言で言えば『地獄』だった。
「……………………」
「……………………」
 睨み合うシュウとキョウシガ。キョウシガを見るシュウの眼は守るべき人を見る眼で
はなく、完全に敵を見る眼だ。
 一方のキョウシガも、シュウに冷たい眼を向けている。二人とも持論を譲らず、相手
の考えを受け入れるつもりも無い。言論の冷戦、こう着状態だ。
「む、むむむむ……」
 空気の悪さに耐えられなくなった夏は、隣のマルコに小声で、
「マルコ殿、今からでも配置を換えてはどうでござるか? シュウ殿をジョナサン殿か
レオ殿と入れ替えて、後ろの車に…」
「敵はどこに潜んでいるか分からない以上、迂闊に車を止めるのは危険です。それにこ
の空気、悪い事ばかりじゃないですよ」
 マルコは運転席に座っているフィアを指差す。車を動かしながらも彼女は周囲に気を
放っており、警戒態勢を保っている。『スナイパー殺し』としての能力を最大限に発揮
し、狙撃に備えているのだ。
「彼女が緊張感を保っているのは、この険悪な空気のおかげだ。俺達も油断せず、キョ
ウシガさんを守ろう」
 マルコの言う事は正しいし、シュウとキョウシガの激論も計算どおりなのだろう。そ
れでも夏には、この空気は厳しいものだった。
『エレア殿やラグナス殿がいてくれれば、連れて来たのでござるが……。またいなくな
ったあの二人といい、先日から姿を見せない七華殿といい、月に来てからあの三人は変
でござる。レウ殿もいないし、どこに行ったのでござろうか?』
 姿を見ない仲間の身を案じたその時、車が急停止した。続いて強烈すぎる爆発音。道
路が、車が、世界が揺れる。
「うわっ!」
「やっぱり来たか!」
 マルコは車の扉を開けて、外に飛び出す。数メートル先の道路に大きな穴が開いてお
り、巨大な黒煙が上がっている。アスファルトの中に仕掛けていた地雷が爆発したのだ
ろう。
「センサー式の地雷だったみたいね。地雷の上に乗らなくても、標的が近づいただけで
センサーが感知して爆発する。あと一秒、ブレーキを踏むのが遅かったら車ごと吹っ飛
んでいたわ」
「そうだろうな。ありがとう、フィア」
「どういたしまして。と、お礼を言うのはまだ早かったみたい。来るわよ」
 銃を取り出すフィア。マルコも小型の拳銃を懐のポケットから手に取り、夏は太刀を
構える。
「シュウ殿はキョウシガ殿を守ってくだされ。気に入らない相手でも、拙者達はキョウ
シガ殿を守ると約束した。ならば命を捨てて守り抜くのでござる。良いな?」
「言われなくても分かってる。仕事とプライベートは区別するさ。ヌリボトケさん、こ
っちへ!」
 シュウはキョウシガを連れて車から出た。そしてやって来たジョナサン達の車に乗せ
ようとする。
「危ない!」
 フィアはそう叫ぶと同時に、空に向かって銃弾を放った。夜の暗闇の空に人影が浮か
び、地に落ちる。
 影の正体は、片目を眼帯で隠した少女だった。その手には三叉の槍が握られている。
「クロナ・ギウムか。やっぱりこの事件はお前達の仕業だったか」
 マルコの言葉を、クロナは否定も肯定もしなかった。槍の穂先をマルコ達に向けて、
殺意のみを返答とする。
「失敗したか。絶好の機会だと思ったのだがな」
「あー、もう、悔しい! あの地雷、作るの大変だったのに! テルペ、こいつ等を許
さない!」
 闇から新たに現れた二つの影。どこに隠れていたのか、ナイン・ソキウスとエウテル
ペ・テレプシコーラまで姿を見せた。
「行くぞ、クロナ、エウテルペ。MSは使わない。こいつ等など素手で充分だ」
「うん、テルペもそのつもり。アキは殺しちゃダメだけど、こいつ等ならいいんだよ
ね? うふふ、皆殺しにしてあげるわ」
「…………ダブルZの敵、私達の敵。殺します」
 三人の死神が、その大鎌をマルコ達に振り下ろす。殺意という名の鋭い大鎌を。



 暗闇の中、椅子に縛られたアキの前には一人の男が立っていた。
 男の名はアンドレイ・ロマノフ。ダブルZの忠実な僕である。
 だが、彼は現在のダブルZに不満を抱いていた。
「足りない。まだ足りない。まだまだ足りない。今のダブルZは不完全だ。あれでは駄
目だ。駄目なのだ」
 そう喚くロマノフを、アキは冷たい眼で見つめる。いや、視線はもう一つ、二つ。闇
に姿を隠した二人の男も、ロマノフをじっと見ている。
「私は望む。ダブルZの更なる進化を。強化を。成長を。その為に必要なのは混沌だ。
善と悪、生と死、破壊と平和が入り乱れた世界では人は欲望のままに生きるようにな
り、その感情を際限なく露にする。混沌に満ちた世界、それこそがダブルZには必要な
のだ」
 人間の感情を理解する事によって、ダブルZは成長する。ロマノフは他者の感情を暴
走させる事によって、ダブルZたるナイン達に感情を早く学ばせ、ネメシスを強くしよ
うと考えていた。
 ゼノンの計画を知った時、ロマノフは心の中で喝采を上げた。ネメシスが眠る月の大
地で、かつてない混沌なる世界が生まれようとしている。ゼノンにはぜひ決起してもら
い、この月を混乱させてもらわなければ。
 その為には邪魔者を排除しなければならない。それに、人を殺すという行為からは多
くの事を学べるはずだ。それはロマノフ自身が良く知っている。
「そう、これは教育であり、育成なのだよ。私はダブルZを完全にしなければならない
のだ。その為ならばこの身を捧げる事も厭わない。それが私の覚悟だ。分かるかね、ア
キ・ミツルギ君?」
「分からないわ」
 アキはきっぱり否定した。
「あなたみたいな人を私は知っている。自分の正義に溺れた人。自分だけが正しいと思
い込んで、他人を踏み躙っても平気な人。自分の為になる事だけに喜んで、自分の為だ
けに怒って、自分の為だけに涙を流して、自分が楽しむ為に人を傷付けて苦しめる。そ
んな最低な人の気持ちなんて私は知らない。知りたくもない」
 かつて悪魔のような男によって人生を壊された少女は、あの男と似た考えを持つロマ
ノフを否定した。この男だけは許せない。許してはならない。
「ふっ。まあいい、君のライブフレームからは面白いデータが取れましたからね。その
お礼として、特等席であの御方の進化と成長を見物させてあげましょう。そう、もうす
ぐ始まる。かつてない混沌の時が、ネメシスの覚醒の時が、もうすぐ!」
 興奮するロマノフは気付かなかったが、アキは二つの人影が部屋から出て行くのに気
付いた。ダリウス・コーネリアとマクシー・ミガゲノ、彼等もまた己の為に人を殺せる
外道。アキの大嫌いなタイプである。



 対峙する戦士達。マルコの前にはナイン・ソキウスが立つ。
「久しぶりだな、マルコ・フィオーレ。以前よりも肉体的に成長したようだな」
「成長したのは体だけじゃないつもりだぜ。だがそっちは変わっていないようだな。い
や、前より退化したように見えるぞ」
「退化しただと? それは間違っている。私の肉体能力は二年前よりも向上している」
「中身が、だよ。二年前のあんたはもう少し人間っぽかった。けど今のあんたに人間ら
しさは無い。ただの人形になったみたいだな」
「人形ではない。私はダブルZになったのだ」
「そうか。まあ予想はしてたから驚かないが」
 二年前、アメノミハシラでの最終決戦の直前、突如として姿を消したナイン。ナイン
の同属であるソキウスシリーズの開発にダブルGが関与していた事と、失踪のタイミン
グがあまりにも不自然だったので、まさかと思っていたが、
「驚きはしないけど、気分は悪いな」
 二年前のナインは影太郎を信頼し、友情を感じていた。それは傍から見ていたマルコ
にも伝わっていた。影太郎への憧れを自覚したマルコにとって、ナインは他人の様には
思えなかった。
「それでも戦わなきゃいけないんだな。まったく、嫌なもんだ……!」
 互いに銃を抜き、撃ち合う両雄。銃弾をかわしつつ、敵の動きを予測して射撃。
「ちっ、さすがに…!」
「予想より動きが速い。データを修正する必要があるな」
 一方、夏も刀を抜いて敵と睨み合っていた。彼女の前に立つのは、三叉の槍を持った
独眼の少女。
「クロナ・ギウム、いや、ミスト殿と呼ぶべきか?」
 二年前、わずかな間ではあるが共に戦った女性の名を口にした夏は、少し戸惑ってい
た。マルコからこうなるかもしれないと聞かされていなければ、もっと動揺していただ
ろう。
 クロナの方も戸惑っていた。だがそれは夏を知っているからではない。彼女が、クロ
ナが知っている名前を口にしたからだ。
「ミスト……。懐かしい名前。会いたい名前。探している名前。でも会えない。会っち
ゃダメ。私は神様の言うとおりにしないとダメなの。だから殺す。神様の邪魔をする人
達はみんな殺すの。それが私のやるべき事だから」
「ダブルGは神では無い、悪魔でござる! あやつの意志を継ぐと言うのなら、そなた
も悪魔と見なさねばならぬ。そなたは魔道に落ちても良いのでござるか?」
「神様は悪魔じゃない。私の行く道も魔の道じゃない。私の行く道は……」
 何だろう? 光に満ちた希望の道、では無い気がする。闇に包まれた道。一歩先さえ
見えない深い深い闇の道。振り返っても帰る道が見えない程に暗い道。
「ミストに会いたい。けど会えない。会っちゃダメだし、そんな時間も無いの」
 クロナはそう呟きつつ、槍を突き出した。岩をも貫く鋭く速い突きを、夏はかろうじ
て避ける。
「くっ、何の!」
 夏はクロナの懐に飛び込み、刀を振るう。二年前に桜道灯から授かった太刀『桜花』
だ。未熟だった二年前はこの名刀を持て余していたが、今では自在に使いこなせる。
「ふん!」
 刀を横一閃。クロナも槍の柄で受け止めるが、力の差で軽く吹き飛ばされた。夏の剣
戟は二年前よりも遥かに向上している。
「あらら、ナインもクロナも苦戦中? だらしないわねえ。しっかりしなさいよ。引き
立て役が頑張ってくれないと、メインが目立たないじゃない」
 エウテルペが前に出る。二年前からほとんど成長していない小柄な少女の両手には、
切れ味が鋭そうなサバイバルナイフが握られている。フィア・スカーレットと、車から
降りたジョナサン、レオ、トロヤの四人を前にしても彼女は動じず、不敵な笑みを浮か
べている。
「なあ、フィア、俺の記憶が確かなら、あの子は二年ぐらい前までは普通の女の子だっ
た気がするんだが……」
「そうよ。名前はエウテルペ・テレプシコーラ。ラクス・クラインには劣るけど、ちょ
っとは有名だった歌手よ。二年前、私達と一緒に行動した事もあるわ」
 冷や汗を流すジョナサンに、フィアは答えながら二年前のエウテルペを思い出す。あ
の頃のエウテルペは口うるさいところもあったが年相応な可愛らしさもあった、ごく普
通の女の子だった。だが、今のエウテルペは違う。
『この押し潰されそうな殺気と、圧倒的なまでの殺意……! 嫌になるわね』
 歴戦の傭兵であるフィアでさえ戦慄する程のプレッシャーだった。戦士としてはまだ
まだ未熟なレオとトロヤは、顔が青くなっている。
「ト、トロヤ、気を付けた方がいいぞ。四対一だから有利だとか、相手は女の子だなん
て油断していると…」
「分かってる。そっちこそ気を付けろよ。お前を助けてやれる余裕なんて…」
 二人が小声で言い合っている隙に、エウテルペが動いた。疾走。そう呼ぶしかない程
の俊足で、四人の間近に迫る。
「「「「!!!!」」」」
 二振りのサバイバルナイフによって、切り裂かれる空間。四人とも本能的に反応して
致命傷は避けたが、服にわずかな切り傷を付けられた。あと一秒、かわすのが遅ければ
腹から内臓が出ていただろう。
「ふうん、今のを避けるんだ。なかなかやるじゃない。楽しめそうだわ♪」
 ニヤリと笑うエウテルペ。ジョナサンもフィアも、こういう笑い方をする人間を何人
も見た事がある。戦場の狂気に飲まれて獣になった者の笑み、血と死を求める殺人鬼の
笑みだ。
「嫌だねえ。ああいう笑い方、女の子はしちゃいけないよ」
「同感ね。でもあの笑いを止めるには、あの子を殺すしかないみたいよ。どうする?」
「やるしかないでしょ。頼むよ、スナイパー殺しさん。トロヤとレオは俺達のバックア
ップに回れ。相手は本物のバケモノだ。無理はするなよ」
「は、はい」
「わ……分かった」
 レオとトロヤはジョナサンの命令に従った。戦力外通告、戦士としては屈辱的な命令
だが、二人とエウテルペの力の差は開き過ぎている。それに二人とも、まだ死ぬ訳には
いかないのだ。レオには守りたい女性が、トロヤには会って問い詰めたい男がいる。
「死ぬなよ、レオ」
「お前もな」
「何ブツブツ言ってるのよ。リハーサルはここまで、それじゃあ本番、行くわよ!」
 再び走るエウテルペ。目にも止まらぬその速さの中で、彼女は笑っていた。人の血を
求める鬼の笑みだった。



 三ヶ所で始まった死闘を尻目に、シュウは夏に言われたとおりキョウシガを連れて避
難しようとしていた。危機を察して車から降りたアニーも一緒だ。彼女の背中には、童
話の眠り姫のように眠り続けている少女が乗っかっている。
「ねえ、この子、重たいから下ろしていいかしら? そもそもどうして私がこの子を助
けるのよ。縁もゆかりも無いのに」
「そんな寂しい事を言うなよ。一緒の艦に乗ってる仲間じゃないか」
「私はあなた達の仲間になったつもりはありませんわ。私があなた達といるのは、お兄
様を追いかけて捕まえる為です」
 きっぱりと言い切るアニー・コーネリア。戦場で兄に置き去りにされても、いやだか
らこそ彼女の兄に対する思いは変わらず、それどころかますます強くなっている。兄ダ
リウスに会って真実を知りたい、その思いが彼女を動かしているのだろう。
「前向きになったようで、そうじゃないんだな」
「何かおっしゃって?」
「いや、何でもない。今は早くここから離れよう。ヌリボトケさんも俺に着いて来てく
ださい」
「わ、分かった」
 車内では険悪だったシュウとキョウシガだが、緊急時にまで揉めたりはしない。二人
ともその辺は心得ている『大人』だった。
『意外と冷静ですのね。上海の頃より成長したのかしら?』
 シュウを少し見直すアニー。ダリウス同様ナチュラルへの強い偏見はあるが、兄より
は寛容だ。ナチュラルでも優れた部分があれば、きちんと評価する。
 いや、兄と共にいた頃はそんな事はしなかった。一生懸命なシュウの事も心の中で嘲
笑っており、下等なナチュラルと見下していた。
『お兄様から離れた事で、私、おかしくなったのかしら? でも悪い気分ではありませ
んわ。どうして……?』
「おいおい、どこに行くんだ? もう帰るつもりなのか。パーティーはまだ始まったば
かりなんだろう?」
「そうよ。せっかくわざわざ足を運んであげたのに、アタシ達が来る前にお開きなんて
嫌よ。もっと盛り上げましょう、ね?」
 戸惑うアニーと逃げるシュウ達の前に、新たな人影が現れた。数は二つ。一人は整っ
た顔立ちの青年、一人は女口調で喋る不気味な男。
「お、お前達は!」
「お兄様……!」
 影の正体は新たな敵だった。ダリウス・コーネリアとマクシー・ミガゲノ。シュウ達
には荷が重過ぎる相手だ。特にアニーにとっては最悪の相手である。
「ん? そこにいるのは我が妹ではないか。こんな所で何をしている?」
 久しぶりに会う妹に、素っ気無い言葉を浴びせるダリウス。どうやら別れてから今ま
でまったく気にしていなかったようだ。そんな冷たい兄に対して、アニーは涙目を浮か
べる。
「お、お久しぶりです、お兄様。どうして、どうしてこんな…」
「アニー。私はお前に質問を許した覚えは無いぞ」
「!」
 冷たい声だった。常識的に、兄が妹に対して放つ声ではない。
「私がどこに行こうと、そして何をしようと、お前に説明する必要は無い。お前は私の
妹だ。兄にとって妹とは道具だ。道具は黙って主に使われていればいい。違うか?」
「お兄、様……」
 アニーはショックを受けていた。以前のアニーならダリウスの言うとおりだと頷いて
いただろう。だが、兄に見捨てられ、短い間ではあるがシュウ達と過ごした安らかな時
が、彼女の心を少しだけ変えていた。
「アニー、我が妹よ。お前が私の妹であるのならば兄の言う事を聞け。そして私の意の
ままに動け。それがお前の義務であり、唯一の存在価値だ。兄の役に立たぬ妹など、ゴ
ミ以下だ。お前はゴミではない。ゴミは下等なナチュラルだけで充分だ。アニー、私を
失望させるな」
 ダリウスの言葉はアニーの心を傷付けていく。傷が付く度にアニーは何も感じなくな
っていく。耳も遠くなる。聞こえるのはダリウスの声だけ。
「ふざけるな! ダリウス、貴様、妹を、アニーの事を何だと思っているんだ!」
 怒るシュウの声も、アニーの耳には届かない。
「言ったはずだ。聞いてなかったのか? 私は昔、その女の命を助けた。つまりそいつ
の命は私のものだ。そして、妹とは兄の道具だ。コーネリア家の長子として生まれた私
の為に働き、私の為に死ぬ。それがその女の、アニー・コーネリアの生きる理由であり
全てだ」
 そのとおりだ、とアニーは思った。そう思っているのに、なぜ心は哀しくなる? な
ぜ痛くて堪らない? 分からない、自分が分からない。助けて、誰か助けて、教えて、
誰か、誰か。
「…………あなた、最低ね」
 アニーの耳に、心に届いた声。それはダリウスのものではなかった。アニーが背負っ
ていた少女の声だった。
 いつから目覚めていたのか分からないが、イノリ・ユーミルは冷たい視線でダリウス
を睨む。それは軽蔑の視線だった。
「色々な人間を見てきたけど、あなたは最低レベルの人間だわ。私には姉妹も兄弟もい
ないけど、弟とか妹は道具なんかじゃないのは分かる。弟や妹は、守るべきものよ」
 イノリは友人の顔を思い出した。マゴット。香港で会ったあの少女はイノリにとって
初めての友人であり、守りたいと思った人だった。もし妹がいれば、あんな感じなんだ
ろう。そう思うイノリには、ダリウスの非情さは絶対に許せなかった。
「守らなきゃいけない人を道具みたいに扱うあなたは、最低の人間。許せない。絶対に
許せないわ」
 怒りに満ちたイノリの声が、アニーの心を安らげていく。ああ、そうだ、私も許せな
かったのだ。自分の事を信じている振りをして、あっさり見捨てたこの兄が許せなかっ
た。殴りたかった。でもそれは妹としては許されない事で、
「あんたみたいな馬鹿なお兄さんを持ったアニーに同情するわ。あんたはアニーに殴ら
れるべきよ」
「!」
 イノリはアニーの気持ちを代弁してくれた。アニーには、もう充分だった。
「ありがとう、イノリ」
「アニー? あなた……」
「ええ、そうよ、あなたの言うとおりだわ。この人はお兄様だけど、もうお兄様じゃな
い。私の兄である資格は無い。自分からその資格を捨てたのよ」
 それはアニーにとって哀しい事実。ダリウスはアニーの兄である事を辞めて、ダブル
Zの元へ走った。悪魔に魂を売ったのだ。兄として生きる道ではなく、悪魔の僕となる
道を選んだ兄の愚かさが哀しかった。
「ダリウス・コーネリア、お前は、お前の妹だった私が倒す。それがアニー・コーネリ
アのやるべき事よ!」
 兄だった男に宣戦布告するアニー。だがそれは、ダリウスにとっては最大級の侮辱だ
った。自分より下だと確信していた者に見捨てられる、人間にとってこれ以上の恥辱が
あるだろうか?
「こ、の、道具が……。調子に乗るな!」
 妹に銃を向けるダリウス。だが、銃声と共に銃は弾け飛ばされた。
「兄妹ゲンカはいいけど、俺の事を忘れてもらっちゃ困るな」
「くっ、シュウ、下等なナチュラル風情が、貴様!」
 睨み合う怨敵三人。緊迫した空気が漂うが、この空気を吹き飛ばす笑い声が起きた。
「あははははははははは! いい、いいわねえ。なかなか面白いショーを見せてくれる
じゃない。わざわざ足を運んだ甲斐があったわ」
「ミガゲノ、貴様、笑ってないでこいつ等を片付けろ!」
「落ち着きなさい、ダリウスちゃん。アタシ達の仕事は、こいつ等を殺す事じゃないで
しょ? やる事をやらないと、ロマノフちゃんに怒られるわよ。彼、怒るとすっごく怖
いんだから」
「ぐっ……」
 ミガゲノの説得(?)に、ダリウスは黙り込んだ。ダブルZの配下となって日の浅い
彼だが、それでもロマノフには頭が上がらないらしい。
「さあて、それじゃあお仕事、お仕事」
 そう言ってミガゲノは機械仕掛けの腕を動かし、持っていた小型装置のスイッチを押
した。その直後、彼の背後に巨大な人影が現れた。



 マルコとナイン、夏とクロナ、エウテルペとフィア達の戦いは続いていた。
 戦況はマルコとナインはほぼ互角、夏とクロナは夏がわずかに押しており、フィア達
四人はエウテルペに翻弄されつつも攻撃は避けていた。つまり、こう着状態に近い。
「あー、もう、何なのよこいつ等! 逃げ回ってばかりいないで、じっとして私に殺さ
れなさい!」
「無茶言うなよ」
 苦笑するジョナサン。
「だが、逃げるのにも飽きてきたな。フィア、あいつの行動パターンは読めたか?」
「ええ。あの子、殺気を出し過ぎて逆に読み辛かったけど、もう大丈夫。あの子の攻撃
は完全に読んだわ」
「ようし、それじゃあ反撃開始と行くか。レオ、トロヤ、俺について来い!」
「はい!」
「おお!」
 ジョナサン達がいよいよ反撃しようとしたその時、夜の闇よりも濃い影が道路を覆っ
た。空を見上げると、異形の巨人がマルコ達を見下ろしていた。
「ネメシス……!」
 マルコの言うとおり、巨大な影の正体はネメシスだった。新しく備えたミラージュコ
ロイドを解除したネメシスは、攻撃をするつもりは無いらしく、下で戦う者達をじっと
見ている。
「もうそんな時間か。夢中になると、時間が経つのは早いな」
 ナインはそう言って、銃を閉まった。クロナとエウテルペも戦闘態勢を解く。
「ふう……」
「もう、何よー! この中途半端な感じ! もっと遊んで殺したかったのに!」
「時間内に片付けられなかった我々が悪い。今日は失敗だ。退くぞ」
「はい、分かりました」
「ぶーぶー!」
 あっさり頷くクロナと、不満タラタラなエウテルペが、ネメシスが差し出した掌の上
に乗る。それをマルコ達はじっと見送った。そうするしかなかった。ネメシスという巨
人の前では、人間など無力に等しい。
「安心しろ。妙な事をしなければ、ネメシスはお前達を殺さない」
 ナインはそう言って、マルコに近づく。
「お前との戦いは面白かった。マゴットが習得した『楽』の感情を理解できた。これで
我々は、ダブルZはまた少し強くなった」
「どういう意味だ?」
「人間の感情を理解すればダブルZは進化し、ネメシスを強くする。人を殺したり、戦
う事は感情の爆発のようなものだ。だから我らはそれを望む。この月を、我らの戦場と
する」
「そんな事、絶対に許さないぞ」
「それでいい。私達を阻止しようとするなら、それは戦いとなり、ダブルZの進化に繋
がる。戦いは激しさを増し、世界は大きく動こうとしている。ダブルZの完成は近い」
 ナインの言うとおり、時代は激しく動き、今まで以上に激しい戦いが始まろうとして
いる。戦いの中でダブルZは進化し、ネメシスはより強くなってしまう。ならば、
「お前達のアジトを必ず見つける。そしてネメシスを完全に破壊してやる」
「やれるものならやってみろ。その時はこちらも全力で戦う」
 マルコの挑戦を、ナインは正面から受け止めた。強大な敵を前にしても臆さず、決意
を述べるマルコに対して、ナインの心に何かが沸き立つ。それは喜びか、怒りか、哀し
みか。
 ネメシスの胸にある操縦席の扉が開いた。中から一人の男が顔を出す。
「はーい、マルコちゃん、元気だった?」
 マクシー・ミガゲノは手を振って、マルコ達に挨拶をした。実に不敵な態度だ。
「し、師匠……」
 かつての師を前にしたトロヤは、言葉を詰まらせる。何を言えばいいのか分からず、
パニックを起こしていた。
 そんな不肖の弟子を横目に、マクシーはマルコに言う。
「ネメシスを倒すのなら早くした方がいいわよ。こんなに操縦し辛くて、パワーの大き
いMSはアタシ初めて。アタシとダリウスちゃんの二人がかりでも、動かすだけで精一
杯。早く倒さないと手に負えなくなるわよ。じゃあ、剛馬ちゃんによろしく」
 忠告なのかジョークなのか分からないが、マクシーはそう言い残して、ナイン達と共
に去って行った。ミラージュコロイドで完璧に消えたネメシスを、誰も追おうとはしな
かった。追っても無駄だろうし、決着をつける時はそう遠くは無い。誰もがそれを確信
していた。



 翌日、ゼノンは地球に向かう前に一人の男を呼び出した。
「ではロベール、後の事は任せる。私達が留守の間、ミナが見込んだ貴様の手腕、存分
に発揮してみせろ」
「はっ、お任せください。ゼノン様がお戻りになる頃には手筈は全て整えておきます」
 月のリ・ザフト残党を率いていた青年、ロベール・ユイレは新たな主に向かって頭を
下げた。ロベールはゼノンとミナ、三従士達が地球に赴いている間に、この月をゼノン
のものとする為の下準備を全て済ませなければならない。プレッシャーを感じるが、そ
れに潰されるつもりは無かった。
「貴様の失敗は、貴様だけでなく貴様を推薦したミナの失敗にもなる。我が妻となる女
の、そして貴様の命の恩人の名を汚す愚行はするなよ?」
「はっ。この命に代えても」
 ロベールのその言葉に嘘偽りは無かった。彼は自分達を救ってくれたミナの為、自分
の持てる力の全てを注ぐ覚悟だった。
 その覚悟はゼノンにも伝わっていた。だからこそ彼は後事をロベールに任せて、地球
に行く事にしたのだ。
「オーブのセイラン親子は無能だが、それ故に利用できる。上手くすれば月だけでな
く、オーブも我が領土に出来るかもしれん。そうなれば我が国は磐石。吉報を待ってい
るがいい」
「はい。ところでゼノン様、例の正体不明の連続殺人犯の事ですが…」
 ロベールは昨日の事件についてゼノンに知らせた。マルコ達が戦い、取り逃がした事
も隠さず、全て報告する。主の友人に対しても容赦しない、実直な男なのだ。
「やはりダブルZが絡んでいたか。ふん、この忙しい時に厄介事を起こしてくれる」
「はい。如何なさいますか?」
「放っておけ」
「よろしいのですか? ダブルZは危険です。早々に叩くべきだと思いますが……」
「マルコに任せておけばいい。あいつならやってくれる」
「…………」
「あいつの事を信じていないようだな。この私と互角に戦った男だぞ」
「ゼノン様は本気ではなかったと聞きます。それに彼はまだまだ未熟、彼に月の命運を
託すのは危険かと思いますが」
「歯に絹を着せないのだな。まあいい、確かに奴は未熟だが、それ故に成長する可能性
が高い。もしかしたら私より強くなるかもしれんぞ」
「まさか、そんな」
「かもしれん、だ。そう決まったわけではない。だが、強くなるチャンスと敵は与えて
やってもいいだろう」
「ダブルZをマルコが強くなる為の当て馬にするおつもりですか?」
 人類の抹殺を企む悪魔を、友を強くする為の餌にする。不謹慎だとロベールは思った
が、同時にゼノンらしいとも思った。
「まあ黙って見ていろ。マルコは強くなる。あいつは戦場というフィールドで無限の可
能性を見せてくれる男、戦場のファンタジスタになれる男だ。そうなってもらわないと
あいつに負けた私の立場が無い」
 そう言ってから、ふふっ、とゼノンは笑った。ロベールは初めて見る、ゼノン・マグ
ナルドにしては優しい微笑みだった。
「それに敵の狙いも読めた。奴らはこの月を混沌の渦に叩き落したいらしい。我々の決
起は奴らの望むところという訳だ。キョウシガを襲撃したのもその一旦だろう。あの男
が死ねば、あの男のシンパどもが騒ぐだろうからな」
 確かに、人気作家にして過激な論客であるキョゥシガの死は月を動かすだろう。月に
混乱を呼ぼうとするなら、あの男を狙うのは当然だ。
「だが奴らは失敗した。我々の決起まで時間が無い今、奴らはもうキョウシガを狙おう
とはしないだろう。警戒を強めた相手を狙うのは時間の無駄だからな。私なら新たなタ
ーゲットを狙う。マルコもそう予想しているだろう」
 ゼノンの言うとおりだった。事件について尋ねに来たロベールに、マルコはゼノンと
同じような事を言ったのだ。そして、次に狙われる人物の予想もゼノンとまったく同じ
だった。
 ロベールはゼノンから渡された写真を見る。一人の女性が写った写真だった。赤く長
い髪が似合う美女。ロベールのかつての主の妻である。
 名前はフレイ。旧姓はアルスター、現在の性はジュール。もし彼女が殺されれば、そ
の死は彼女の夫を怒らせ、彼女の友を怒らせ、月をは戦場と化すだろう。自我が壊れか
けて入院しているこの女性が、月の未来の鍵を握っているのだ。

(2009・7/22、前半掲載 8/5、前半掲載)

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