第18章
 アウトロー・シスターズ

 大空を飛ぶウィズ。レドームを搭載した大型戦闘機の操縦席では、怪盗レインボース
ターが満面の笑みを浮かべていた。
「ふふん、ついにやったわ! あのクソ生意気な影太郎に一泡吹かせてやった! ざま
あみろっての、バーカ! あははははははははは!」
 大笑いするレインボースター。今頃、影太郎の奴は途方に暮れているだろう。そんな
彼を夏や樹里やエウテルペ達が優しく慰めて、
「…………ムカツク」
 さっきまでの上機嫌が消え去ってしまった。あのクソガキの顔を思い出すだけでもム
カツクのに、女とイチャイチャしている場面など考えるだけでムカツク。許せない。
「あの女たらしのエロガキめ。近い内に思い知らせてやる必要があるわね!」
 何とも勝手な怒りを抱きつつ、レインボースターは乗機を西へ飛ばす。目的地は東ア
ジア共和国の特別行政自治区・日本。
「他の荷物はもう到着しているはずよね。あとは……」
「ワン!」
 今後の予定を考えていたレインボースターの耳に、彼女の大嫌いな生物の鳴き声が飛
び込んできた。そんな馬鹿な。ここは音速で飛んでいる飛行機の操縦席。アレがいるは
ずがない。気のせいだ。うん、きっとそうだ。絶対にそうだ。アレがこんな所に居るは
ずがない。居てはならない。空耳だ。気のせいだ。絶対に。
「ワン、ワンワン!」
 レインボースターの願いは天に届かなかった。いつの間に潜り込んでいたのか、彼女
の天敵が足元から現れた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
ッ!!!!!!」
 東アジアの空に絶叫が響き渡った。



 東アジアの東端に浮かぶ孤島。住人は千人足らず、港や空港もあるにはあるが本土か
らの便は三日に一度という、絵に描いたような僻地である。
 この小さな島の小さな空港に、レインボースターを乗せたウィズが着陸した。途端に
空港の建物から数人の男と、艶やかな服を着た美女が出てきた。彼女はウィズに近づ
き、その機体をじっと見る。
「ふうん。これが今回のあの娘の獲物か。戦闘機一機だけとは、怪盗レインボースター
にしてはしょぼい戦果ね」
 謎の美女の言葉に、彼女の後ろにしたがっていた男が口を開く。サングラスをかけた
その男は渋い声で、
「いえ、見た限りではこの戦闘機は普通の物ではなさそうです。もしかしたら、とんで
もないお宝かもしれません。七華さんから話を聞いてみましょう」
 男が言い終ると同時に、ウィズの操縦席のハッチが勢いよく開いた。中から出てきた
のは、
「た、助けて……。誰か、助けて……」
 息も絶え絶え、気絶する寸前にまで疲れ果てたレインボースターと、
「ワン!」
 彼女の頭に乗って、楽しげに吠えるレウだった。
 謎の女は、地球軍やザフトからも恐れられている大泥棒のマヌケな姿を見て一言、
「何やってるのよ、バカ妹」
「あ、あはは、久しぶり、灯(あかり)お姉ちゃん。取り合えず、助けて…」
 半年振りに再会した姉の前で、レインボースターは失神した。
「クゥン?」
 心配そうに鼻を鳴らすレウ。その様子を見た桜道灯はため息をつく。
「高倉。どうしてこの子はこんなにもバカなんだろう。そして、どうしてこんなバカが
私の妹なんだろう。はあ……」
「…………」
 ため息をついて落ち込む灯。今にも泣き出しそうなその表情は、日本地区最大の暴力
団、桜道会の会長とは思えないものだった。若頭を務める高倉も何も言えない。
「クゥン、クーン」
 レウの悲しげな声が、妙に高く響いていた。



 一方、ギガフロートの影太郎達は、レインボースターの後を追う準備を行なってい
た。
 レウの姿が見えない事から、影太郎はレウがレインボースターと一緒にウィズに乗っ
ているのだと推理した。その推理は、レウの首輪に仕込まれている発信機の反応が東に
向かっている事で確信となった。
「まったく、レウの奴、いつの間にウィズに潜り込んだんだ? おかげで助かったけ
ど」
 愛犬のファインプレイを褒める影太郎。レウの発信機は、ギガフロートからかなり離
れた地点でレーダーから反応が消えた。発信機の有効範囲から出てしまったのだろう。
しかし、
「焦る事はない。ウィズの向かった方向は分かったんだ。それに、あの泥棒女は必ず日
本に行く」
 影太郎はオーブに居た時にアサギ達から聞いた話を思い出していた。アサギ達三人が
レインボースターの下で働いていた頃、レインボースターが一度だけ自分の素性につい
て話した事がある。詳しくは話してくれなかったが、レインボースターは日本の生まれ
で、今も家族が日本に居るらしい。家族はレインボースターが盗んだMSのジャンクパ
ーツなどを裏の市場で売り捌き、あの泥棒女の資金稼ぎを手伝っているという。
 影太郎とプロフェッサーはジャンク屋組合の情報網を使い、そういう商売をしている
会社や組織の情報を集めた。その結果、一つの組織を探り当てた。
 レインボースターの行き先と、彼女の協力者は分かった。あとは追いかけて、捕まえ
るだけだ。影太郎はマチルダにMSや物資を積み込んで、追跡の準備を急いだ。
 影太郎と共に日本に向かうメンバーは夏、エレアとラグナス、新入りのユナ、そして
客分のマルコ。日本でのコンサートがある佐々山とエウテルペも、ついでに同行する事
になった。スケジュールは大丈夫なのかと心配する影太郎に佐々山は、
「スタッフは先に向かわせた。お前さん達とはもう少し一緒にいたいし、力になれるか
もしれないからな」
 と心強い事を言ってくれた。
 プロフェッサーはジャンク屋組合との打ち合わせがあるので、ギガフロートに残留。
敵に操られてデネブを操縦していたナイン・ソキウスは正気を取り戻したが、戦闘後に
気を失ってしまい、まだ目が覚めない。治療の為に彼もここに残す事にした。ロウと樹
里は荷物の積み込み作業を手伝ってくれたが、この二人もギガフロートに留まる。
「ギガフロートが大分やられちまったからな。これを放ったまま他所に行くなんて、俺
のプライドが許さねえ。こいつを直して、お前達が戻ってきたら、すぐに宇宙に行く準
備もしないとな」
 そう言って影太郎に別れを告げたロウに、劾が協力を求めてきた。ブルーフレームの
武装強化プランに手を貸してほしいと言う。
「只とは言わん。正当な報酬以外にも、ブルーフレームの戦闘データを提供しよう。レ
ッドフレームの強化を考えているのなら、役に立つはずだ」
 世界の混迷は深まる一方で、戦いはますます激しくなる。生き残る為には力が必要
だ。ロウは劾の頼みを快く受け入れた。
 ジャン・キャリーもロウ達と共にギガフロートに残る事になった。ギガフロートの修
復とレッドフレーム、ブルーフレームの強化を手伝いたいらしい。
「泥棒の追跡や捕縛では私の出番は無いだろう。私は私に出来る事をやっておこう」
 MSも、ナイン・ソキウスが乗っていたデネブと、レインボースターが乗り捨ててい
ったプロトタイプハイペリオンはギガフロートに置いていく。この二機のデータはアス
トレイ達をより強くしてくれるだろう。
 シャドウ・セイバーズには抜けたジャンの代わりに、新しいメンバーが加わった。サ
ーペントテールの一員、『スナイパー殺し』ことフィア・スカーレットが同行を申し出
たのだ。
「劾の頼みを聞いてくれたお礼よ。ギガフロートに居ても退屈なだけだし」
 女傭兵はそう言った後、夏の耳元に近づいて、
「イライジャの方が良かった?」
「なっ!」
 顔を赤く染めた夏に、フィアはイタズラっ子のように笑った。エレアに続く新たな強
敵の加入に夏は心を痛めた。
 マチルダの大型コンテナにアストレイ・リトルフレームとガッツ、ブレイブ、ストラ
イク撃影とケンタウロス、そしてフィアのジンが搭載された。これだけ積み込むと、マ
チルダの広いコンテナも狭く感じられる。この様子を見たマルコが、
「こんなに荷物が多いとこの飛空挺、かなり遅くなるよ。ウィズを取り戻したらギガフ
ロートに戻ってくるつもりなんだろ? だったら、もう少し荷物を置いていった方がい
いと思うけど」
 と影太郎に意見する。
「うーん、そうしたいのは山々だけど、行き先は東アジアだからな。あの国の事情を考
えると、万が一の備えは必要だろう。佐々山さんや、先に日本に行った茜も用心しろっ
て言ったし」
 影太郎の返事に、マルコは納得した。佐々山や茜の言うとおり、今の東アジアは微妙
な状態にある。特に日本は安全なようで危険かもしれないという不安定な地域で、母カ
テリーナからは、なるべく行かないでくれと言われている。しかしマルコは行くつもり
だ。
『絶対に行くなと言われている訳じゃないし、影太郎が行くならついて行くしかない。
それに…』
 マルコは横目で夏の顔を見た。彼女は祖先の故国に行ける事を喜んでいるらしく、目
を輝かせている。
「サムライの国、日本。一度は訪れたい国でござった。ニンジャやゲイシャにも会いた
いでござるな。エレア殿も火星へのいい土産話になると思うでござるよ」
「そう? ニンジャとかゲイシャって大昔に滅びたって聞いたわよ。あ、でも夏みたい
なのもいるし、まだ生き残っているかもしれないわね。ラグナス、どうなの?」
「うーん、どうでしょうか。少し前なら生き残っていたかもしれませんが、あの日本戦
争がありましたからねえ。戦争で死んだか、生き残りも東アジア政府に処刑されたかも
しれませんよ」
 日本戦争。それは東アジア共和国の闇そのものであり、一国の存在そのものを抹殺さ
れた戦争である。
 コズミック・イラが成立して間もなく、世界各地では新たな国家体制の確立が行われ
ていた。鎮圧、和平、戦争、講和、破壊、新生。後に再構築戦争とも言われる第三次世
界大戦。多くの悲劇が繰り返された一方で、人々は互いに手を取り合い、大西洋連邦を
始めとする新時代の体制を作り出した。
 東アジア共和国も、そういった流れの中で作られた国家である。C.E08年、中華
人民共和国とその周辺国からなるこの巨大国家は、未だ独立を保っていた東の島国、日
本に自国への加盟を求めてきた。
 『加盟』という言葉を使ってはいたが、その内容は共和国への絶対服従を求める脅迫
めいたものだったという。恭順か反抗か、日本政府の意見は二つに割れてしまい、連日
議論を重ねた。そこへ共和国軍は奇襲を仕掛け、日本軍の主力部隊を壊滅。九州を制圧
し、日本に無条件降伏を要求してきた。
 圧倒的な数を誇る共和国軍に対し、政府は降伏を決意。しかし、これを良しとしない
者達は多数の国民と共に日本を脱出。大戦の混乱の中で日本の委任統治領にしていたソ
ロモン諸島の一部の島に移住し、そこを新たな故国とした。国名はオーブ連合首長国。
後に世界の歴史に多大な影響を与える国の誕生である。
 一方、日本に取り残された人々に対する東アジア共和国の行為は苛烈を極めた。政
治、経済、教育、文化、その全てが否定され、弾圧された上、共和国への絶対的な忠誠
を強いられた。これに対して反抗する人々もいたが、全て鎮圧された。
 日本の独立を求める人々と東アジア共和国の戦いは長きに渡り、双方共に多大な犠牲
を出した。独立派はユーラシア連邦と手を組み、北海道を制圧。しかし後に独立派は北
海道から追い出され、北海道はユーラシア連邦の占領下に置かれた。
 この一連の戦いはその壮絶さ故に単なるテロ事件ではなく、『日本戦争』として語ら
れている。
 しかし十年ほど前に、東アジア政府は日本に対する方針を一変。特別行政自治区とし
て自治権を与え、経済や文化活動にも寛大な態度を示した。この十年で日本はかつての
繁栄を取り戻し、フジヤマ社など世界的な大企業も設立されている。
 とはいえ、独立派も滅びたわけではなく、今も各地でテロは起きている。平和と戦争
が共存している不思議な地域。それがコズミック・イラ71の日本なのだ。
 そんな不安定な場所に行くのだから、ある程度の武装は必要だろう。しかし、シャド
ウ・セイバーズのMSは軍用MSに勝るとも劣らない性能である。下手をすれば、日本
で寝ている虎達を揺さぶり起こす事になりかねない。
『戦争を収める力となるか、新たな戦火の火種となるのか……。もうしばらく見せても
らおうかな』
 そう決意したマルコは、ギガフロートの端で発声練習をしている少女を見つけた。エ
ウテルペ・テレプシコーラ。敬愛する母から守るように言われている少女だが、
『うーん、悪い子じゃないのは分かるんだけど、どうも好きになれないんだよなあ。マ
マはどうしてこの子を守れなんて言ったんだろう?』
 エウテルペの顔を見つめるマルコ。その視線に気付いたエウテルペは発声練習を止め
て、マルコを睨む。
「何よ、あんた。テルペに何か用なの?」
「いえ、別に。随分と熱心に練習をするんだなあと思って」
「練習をするのは当然でしょ。テルペはプロなんだから。日本に行ったら、すぐにコン
サートがあるし」
 八歳の子供とは思えないプロ根性を見せるエウテルペ。その根性にはマルコも感心し
た。一生懸命頑張っている人間は嫌いではない。
「歌が好きなんですね」
「歌うのは嫌いじゃないけど、テルペにはこれしかないのよ。そう、テルペには他に何
も無い。帰る家も、親も、名前も…」
 遠い目をして、海を見るエウテルペ。マルコは資料で見たエウテルペの過去を思い出
した。この少女は物心が付く前に両親に捨てられ、以来たった一人で生きてきた。彼女
の歌の才能に惚れ込んだある芸能プロダクションの社長に拾われるまで、スラムのよう
な町の片隅で歌い、その日の食い扶持を稼いでいた。母の愛に恵まれ、絶大な力を持つ
組織に育てられてきたマルコとは正反対の人生である。
『夏さんといい、この子といい、あの男の周りには面白い人間が集まるみたいですね。
どうしてなんだろう?』
 影太郎への興味をより大きくしたマルコも乗せて、マチルダは西の空へと飛び立つ。
アジアの東の果てにある島、かつて黄金の国とも呼ばれた日出ずる国へ。



 怪盗レインボースター。本名は桜道七華(ななか)。先代の桜道会会長で『星空の似
合う任侠』と言われた桜道現一郎の次女である。五年前に父が対立組織のヒットマンに
殺され、姉の灯がその跡を継いだ時に家を飛び出し、以後は怪盗としての人生を歩んで
いる。
 しかし実家との縁は切れておらず、盗んだ宝物やMSのパーツなどを裏の市場に売り
捌く際には桜道会の販売ルートを使っている。もっとも手数料として売り上げの半分近
く取られているが。
 世界中を荒らし回る大泥棒な妹と、日本でも屈指の暴力団を率いるガメツい姉。亡き
父が見たらどう思うだろう? 豪快で笑い上戸で、ヤクザとは思えないくらいお人好し
で正義感の強い父の事だ。道を思いっきり踏み外したバカ娘達をぶん殴った後、警察に
連れて行くかもしれない。
 ちょっと待って。何もそんなに怒らなくてもいいでしょ。私も姉さんも悪になっちゃ
ったけど、それでも最後の一線は越えてないわよ。姉さんは麻薬とかには手を出してな
いし、私だって貧乏な人からは盗んでいない。ちょっとムカツく奴からは盗んだけど。
 どんな奴かって? ムカツく奴よ。私より小さいガキのくせに、私より頭が良くて、
勇敢で、時々だけどちょっとカッコよくて、だから女の子にもモテて……。
「あーっ、もう! ムカツく!」
 怒りと共にレインボースターは目を覚ました。彼女は畳の敷かれた和風の部屋で、布
団に寝かされていた。服も寝間着に着替えさせられている。
「あ、この着付けはお姉ちゃんのだ。わざわざやってくれたんだ」
 姉の優しさに感動するレインボースター。ちょっと帯のところが苦しいけど、それく
らいは我慢しよう。
「七華さん、お目覚めですか?」
 障子戸の向こうからが男の声がした。桜道会の若頭、高倉の声だ。
「うん、今起きたところ。何か用事? いいわよ、入ってきて」
 レインボースターがそう言うと、高倉は失礼しますという断りを言った後、障子戸を
開けて入ってきた。そしてレインボースターに頭を下げ、
「お早うございます。会長が呼んでいますので、一緒に来てもらえませんか?」
「姉さんが? 何か用事?」
「詳しい事は会長からお話しするそうです。客人も来ていますので着替えて、急いで来
てください」
 そう言って高倉は部屋を出て行った。
 しかし、客が来ているのなら自分は行かない方がいいのでは?とレインボースターは
思った。怪盗レインボースター=桜道七華という事は灯と高倉、そして先代の頃から組
にいる一部の側近しか知らず、桜道七華という存在は桜道会では半ばタブーになってい
る。そんな自分が客の前に出てもいいのだろうか?
『あ。もしかしたら、サハク家の奴が来てるのかも』
 桜道家とオーブのサハク家は、六代前の先祖を同じとする親戚筋である。日本戦争の
際にサハク家は日本を出て行き、桜道家は日本に留まった。二つの家は住む国は分かれ
たが付き合いは今でも続けている。レインボースターがサハク家の支援を受けていたの
も、両家の縁によるものである。
『お姉ちゃんはどう思っているかは知らないけど、私はサハク家の連中って、あんまり
好きじゃないのよねー。特にロンド・ギナ・サハク。偉ぶってて傲慢で自信過剰で、あ
いつは絶対に犯罪者になるタイプだわ』
 ちょっと待て、世界屈指の大泥棒。
 色々と考えつつも着替えを終えたレインボースターは、待たせていた高倉と共に姉の
いる客間に向かった。
 二人は庭に面した廊下を歩く。庭の中心には幼い頃に姉と登った大きな松の木。そし
て整えられた芝生と、慎ましく咲く花々。昔のままの光景だ。
 懐かしい庭と、木で作られた古風な桜道家の香りは、レインボースターの心を『桜道
七華』に戻していく。父や姉と共に楽しく暮らしていた子供の頃。
『あの頃は自分が泥棒になるなんて、夢にも思わなかったわね。幸せだから別にいいけ
ど』
 そう、今の自分は幸せだ。ムカツく事はあるし、ムカツく奴もいるけど、そんなのは
人生を彩るスパイスのようなものだ。どんな事があっても生き延びて、自分の考えや生
き様を貫き通す。善でも悪でも、これ以上の幸せな生き方は無いだろう。
『だから私は自分の思うままに生きる。後悔しないよう一生懸命に頑張って、そして後
ろを振り返らずに!』
 レインボースターは、自分の生き方を改めて強く決めた。そんな彼女を高倉は客間の
前に案内する。客間に入る前にレインボースターは、気になっていた事を尋ねた。
「高倉さん、お客さんって誰なの? サハク家の人?」
「いいえ。サハク家の方ではありません。それにサハク家はもう我々と会う事は無いで
しょう。国が滅びてしまいましたからね」
「えっ? オーブが……滅んだ!?」
「はい。七華さんが寝ていた三日間の内に、地球軍の攻撃を受けて」
 一晩だけ気絶していた思っていたレインボースターだったが、実は三日も寝ていたの
だ。いや、大嫌いな犬と数時間もの間、一緒にフライトしたのだ。それくらいの精神的
ダメージは受けて当然だろう。それよりも、
「オーブが滅びたって、それじゃあオーブの人達は…」
 レインボースターの脳裏にアサギ、ジュリ、マユラの顔が浮かぶ。短い間だったが子
分として働いてくれた少女達。彼女達が死んだ? そんな……。
「詳しい被害は分かりませんが、かなりの犠牲者が出たようです」
 高倉はオーブの戦いについて、彼が知っている限りのことを簡潔に教えてくれた。二
日前、地球軍の大艦隊がオーブに侵攻。オーブ政府にマスドライバーの提供と無条件降
伏を求めて、総攻撃を開始。オーブ軍も奮闘して最初の攻撃は防いだが、再度の攻撃に
は抗えずに敗北。ウズミ・ナラ・アスハを始めとする首脳陣は自決。ウズミの娘カガリ
を中心とする残像勢力は宇宙に逃走した。
『カガリ・ユラ・アスハは生きている。それならあの子達も大丈夫よね。大切なお姫様
を残して死ぬはずが無いわ』
 レインボースターはそう思い、子分達の無事を願った。
「それにしても三日も寝ていたなんて、不覚だわ……。私が持ってきたパーツとかはも
う売っちゃった?」
「ほとんどは売りました。あのウィズという戦闘機はまだですが」
「あれは売らないで。全部揃えて、私のコレクションにするんだから」
「四機全てを盗むつもりなんですか?」
「当然よ。あんな凄いMS、あの女たらしのバカには勿体無いわ。あいつには中古のハ
イペリオンでも充分よ」
 ? ちょっと待て。高倉にはウィズの名前も、MSと二機のマシンと合体する事も教
えていないはずだ。なのにどうして色々知っている?
 嫌な予感がするレインボースターの前で、高倉は客間のドアを開けた。洋風の客間の
ソファーには、
「あら、ようやくお目覚めかしら。このバカ妹」
 ニコニコ笑っているが心中ではかなり怒っている灯と、
「よお、久しぶりだな。と言っても、三日ぶりか」
 ニヤリと笑う宇流影太郎とその仲間達が座っていた。そして、
「ワン、ワンワン!」
 影太郎の膝の上にいたレウの声が、レインボースターに止めを刺した。彼女の意識は
再び闇に落ちていった。



 影太郎達が桜道家を訪れている理由は簡単。この男が仲介したのだ。
「いやあ、まさか会長さんとレインボースターがご姉妹だったとはねえ。世間とは随分
と狭いものだ。あっははははははは!」
 大笑いする佐々山一郎。灯も釣られるように微笑み、
「そうですね。私達が支援している佐々山先生のお知り合いにバカ妹が迷惑をかけてし
まったなんて……。影太郎さん、申し訳ありません。妹に代わってお詫びします」
「いや、俺はもういいですよ。ウィズは取り戻せたし、レインボースターにも仕返しし
たし」
 影太郎は部屋の片隅で気絶しているレインボースターを見た。未だ目覚めぬ彼女の顔
をレウがペロペロなめている。目覚めても地獄、目覚めなくても地獄。哀れな。
 思いの外、簡単にウィズを取り戻せた影太郎。この幸運は佐々山と灯が知り合いだっ
たからだ。芸能人と暴力団は前世紀から、いやそれ以前の古くから繋がっており、時に
大きな事件やスキャンダルの原因となった。桜道会も多くの芸能人と繋がっていたが、
彼らは決して見返りを要求せず、芸能人達を裏から支える黒子に徹し続けた。
「任侠なんて気取っていても、所詮私達は人の道から外れた外道。そんなバカが、光の
下で一生懸命頑張って、みんなに夢を与えている人達の邪魔をしちゃいけない。いや、
むしろ彼らを助けてやらないとダメだ。私達のご先祖様、桜道会の初代会長のお言葉で
す。昔の人のくせに、カッコつけすぎですよね」
 そう苦笑する灯だが、彼女も、彼女の父や祖父、そして桜道会の歴代の会長は初代の
言葉を守り続けた。その結果、桜道会は芸能人達から絶大な信頼を得て、現代に至って
いる。佐々山も桜道会を信頼しており、先代会長の現一郎とは友人でもあった。その関
係で灯とも仲が良い。
「まったく、縁は異なものというでござるが、本当にそうでござるなあ。佐々山殿が桜
道会の会長と知り合いだったとは」
「そ、そうですね。でも、佐々山さんと灯さんが仲良しなのは分かる気がします。二人
とも、ちょっと似てるし」
 ユナの言葉に、夏は納得した。確かにこの二人は似ている。古臭くも自分なりの正義
感を持ち、それを貫き通そうとしているところは特に。
『影太郎殿とも似ているでござるな』
 だからなのか、佐々山と灯、そして影太郎は出会って間もないのに、意気投合してい
る。長年の親友のように笑い合い、和やかな空気を作り出している。とてもヤクザの家
とは思えない雰囲気だ。警戒心を抱いていたエレアとフィアの夏いじめコンビも、
「何か、緊張してるアタシ達がバカみたいね。こんな事ならラグナスとマルコ君も連れ
てくれば良かった」
「マチルダの留守番は必要よ。それにしても、あの三人は息が合いすぎるわね。余計な
トラブルに巻き込まれなきゃいいんだけど……」
「フィア、それは無理。影太郎がいる限り、シャドウ・セイバーズはトラブルに巻き込
まれ続けるのよ。自然の摂理みたいなものね」
 新入りのフィアにエレアが諭す。そして、彼女の考えは正しかった。
「あ、そうだ。佐々山さん、今度のコンサートは気を付けて。血車組(ちぐるまぐみ)
のバカどもがコンサートを潰そうと動いているみたいよ」
 灯は忌々しげに言った。続いて高倉が、
「スタッフにコンサートの中止を要求する脅迫状を何百通も送ってきました。それだけ
でなく、スタッフの自宅に日に何度も電話をしたり、富士山麓の会場にゴミを撒き散ら
すなどの嫌がらせもしています」
「うわあ。セコい事をするなあ」
 呆れる影太郎。佐々山も苦笑しているが、嫌がらせの方法としては適切だろう。
「この程度ならまだいいのですが、連中、直接コンサートをブチ壊そうとしているよう
です。大陸から武器弾薬だけでなく、中古のMSも持ち込んでいます」
「セコい暴力団だと思ったら、いきなり変わったな。コンサートを潰すのに、そこまで
やるのか」
「血車組ならこれくらいやるわよ。そういう連中の集まりだし」
 灯の言うとおり、血車組はその物騒な名前に相応しい、過激で残忍な集団だった。桜
道会の敵対組織の一つで、暴力、恐喝、殺人、武器や麻薬の売買など金儲けと勢力拡大
の為なら何でもやる暴力団で、一般人を苦しめる、むしろそれを楽しみとする、桜道会
とは正反対の暴力団、つまり『普通の暴力団』である。
「ふん。あいつら、俺が血車組の下につくのを断った事をまだ根に持ってるのか。ケツ
の穴の小さい連中だ。見る目も無いしな。歌依吟を組のお抱え歌手なんかにするから落
ち目になるんだよ」
 佐々山は怒っていた。彼の友人である灯と、影太郎も同様である。
「佐々山さん、コンサート当日は桜道会が組織の総力を挙げて、貴方と会場をガードし
ます。血車組の好きにはさせませんから」
「しかし会長、相手はMSまで持ち出しています。凶暴すぎてプラントを追い出された
コーディネイターを傭兵として雇ったそうです。連中、本気ですよ。このままじゃ…」
「じゃあこっちもMSを……ってわけにはいかないわよね。高倉、あんたコーディネイ
ターだけど、MSの操縦って出来る?」
「いくらコーディネイターでも、訓練も受けていない事は出来ませんよ。どうします
か? こっちも傭兵を雇いますか?」
「そうねえ。でも今からじゃ、探す時間が……」
「いや、探す必要は無いと思うぜ」
 悩む女任侠に、影太郎が救いの手を差し伸べた。



 幾つもの高層ビルがそびえ立つ、東アジア共和国でも一、二を争う大都市、上海。町
の中心部にある高層ビルの一つ、ロマノフ運送・上海支社。ビルの最上階にある支社長
室では、支社の査察に来た社長アンドレイ・ロマノフが一人の男と会っていた。
『どこかで見たような光景だな。私も、そして会っている男もその光景と同じだ。デジ
ャブというやつか?』
 そう思ったロマノフだが、これはデジャブではない。この客人とは三ヶ月程前にプト
レマイオスの本社で会っている。今と同じように二人きりでだが、あの時とは場所も違
うし、客の様子も違う。三ヶ月前のこの男は余裕綽々で、相手やこの世界そのものを馬
鹿にしたように思えたのだが、今は別人のように変わっている。目は暗く沈み、表情も
硬く、鬼気迫るものを感じさせる。
「ロマノフさん、俺の頼みを聞いてくれたんだな。感謝する」
 歌依吟は素直に礼を述べた。ロマノフの背筋に寒気が走るが、何とか堪えて話を進め
る。
「君の頼みを聞いたのではない。佐々山一郎のコンサートを潰せば、我々にも利益があ
るからな。この一件で桜道会の信用が落ちれば、我々と手を組んでいる血車組が日本地
区を制する切っ掛けになる。あの地区を制すれば、東アジアは完全に崑崙党(こんろん
とう)のものだ。新参者の私には最高の手柄になる。幹部の一人として、枕を高くして
眠れるよ」
 崑崙党。それはアジアの闇に古くから存在していた、華僑系の国際犯罪組織である。
千年以上の歴史を持ち、長い歴史の中で繰り広げられてきた抗争に勝利し続け、現在は
東アジアの裏社会を支配する巨大組織として君臨している。
 しかし、この大組織の力を持ってしても、日本を制する事は出来なかった。闇の世界
の侵略者に対して日本の暴力団は結束して立ち向かい、崑崙党の日本上陸を悉く阻止し
た。日本が東アジア共和国の領土となった現在も、日本の裏社会は崑崙党に抗い続けて
おり、特に桜道会は強く抵抗していた。
 崑崙党は桜道会と敵対していた血車組を傘下にして桜道会の壊滅を企み、先代の会長
だった現一郎を暗殺。一気に日本を制しようとしたのだが、娘の灯が親を超える指導力
を発揮して組織を立て直し、攻撃を仕掛けてきた血車組を逆に追い詰めた。崑崙党が支
援した事で血車組は何とか壊滅は免れたが、桜道灯率いる桜道会は崑崙党にとって、ま
すます厄介な敵になってしまった。
 ロマノフはこの厄介な敵の始末を命じられた。崑崙党の最高幹部である『十仙』の地
位に最年少で上り詰めた男への試練。これを何とかすればロマノフの地位は安泰。ダブ
ルGの亜使徒としても、より活躍できるだろう。
「桜道会を潰す。それが私の目的だ。君の案に手を貸したのは、利益と目的が一致した
からに過ぎん」
「冷たいなあ。ロマノフさん、俺の事、嫌いなのかい?」
 からかうように尋ねる吟。ロマノフの心が苛立つ。こんなバカバカしい質問、普段な
ら答えないが、今日は答えてもいい気がした。
「ああ、そうだ。はっきり言って私は君が嫌いだ。同じ亜使徒である事さえ腹が立つ
よ」
「ははっ、随分と嫌われたもんだねえ。俺、あんたにそんなに嫌われるような事、した
っけ?」
「いや、そんな事はしていない。していれば君を殺しているよ。神の意志に逆らう事に
なってもね」
 ロマノフは自分の発言に少し驚いた。ダブルGの意志に逆らうなど考えた事も無かっ
た。しかしこの歌依吟という男を見て、その声を聞いていると、そういう気持ちになっ
てしまうのだ。神に逆らってでも殺したい。潰したい。倒したい。そうしなければなら
ないという、人としての本能?
「ふふっ、まあいいさ。誰にどれだけ嫌われようと、俺には関係無い」
 吟は背中のギターを持って、弦を鳴らした。
「いや、むしろ嫌われた方がいい。俺を嫌う事、人を嫌う事は絶望の始まり。誰かに嫌
われれば嫌われるほど、俺は最高の歌が作れるんだ!」
 絶望を求め、それを歌にする男、歌依吟。しかし最近の彼は歌を作れなかった。せっ
かく撒いた絶望の種が、芽を出す前に潰されてしまう。何とか芽を出した物も、あっさ
り刈り取られてしまった。
「宇流影太郎、あいつは許さない。あいつがいる限り、俺は絶望の歌を作れない。歌え
ない。だから潰す。殺す。絶対に!」
 憎しみを抱き、殺意を高める吟。犯罪組織の幹部にまでなったロマノフでさえ怯む程
の殺意だった。
「……意気込みは立派だな。だが、あの小僧はなかなかやるぞ。MSも本人も侮れない
力を持っている。仲間の力を借りたとはいえ、私がギガフロートに送り込んだ傭兵達を
全員撃破して、Nジャマーキャンセラーを搭載した核動力機も倒した。まともに戦って
も君に勝ち目は無いぞ。どうやって倒すつもりだ?」
「ああ、あんたの言うとおりだ。だから俺も切り札を使う」
 そう言って吟は指を鳴らした。同時に吟の側に隠れていたアルゴス・アイが姿を現し
て、幼い子供の立体映像を映し出した。
「! この子は……」
「そうさ、これが俺の切り札。五年もかけて育てた俺の『子供』だ。こいつは俺の命令
なら何でも聞くし、何でもやる。俺の目の前で実の親を殺して、その体をバラバラに切
り刻んで海に捨てる事もな。凄いだろ、はははははははははははは!」
 それから吟は、この子供をどうやって育てたのか、そしてどうしてこの子が実の親を
殺すような事になったのか、詳しく語った。その内容は悪人であるロマノフでさえ、嫌
悪感と吐き気を感じさせる程だった。
「…………分かった。ああ、もう分かったから、君は早く行きたまえ。その子供と一緒
に人殺しでも何でも好きにしたまえ!」
 ロマノフは追い出すように吟を支社長室から出した。そして苛立ちを抑える為、煙草
に火を点ける。
「禁煙していたのではなかったのか?」
 突然の男の声。しかし吟のような聞く者を苛立たせる声ではなく、落ち着いた心を感
じる『人間』の声だった。
「ええ、禁煙していましたけどね、今日で終わりですよ。あんな話を聞かされて煙草に
頼らない程、私は聖人でも悪魔でもありませんので」
 ロマノフはまだ少し残っていた苛立ちを謎の男にぶつけた。理不尽な言動だったが、
しかし男は平然と、
「そうか。うむ、そうだな」
「…………すいません。それにしても分かりません。ダブルGはなぜ、あんな下劣な人
間を亜使徒にしたのでしょう?」
「神には神のお考えがある。我々は神の手足。余計な事を考えず、神の為に邁進するの
み。それが我らの務めだ」
 力強い男の言葉にロマノフは頷いた。そして作戦の成功と、吟の願いが叶わない事を
神に祈った。



 影太郎達がウィズを取り戻して四日後。今日、富士山麓に作られた特設会場で、佐々
山一郎のコンサートが行なわれる。このコンサートには佐々山だけでなく国内外の有名
な歌手が招かれており、中止されたギガフロート完成記念コンサートに参加する予定だ
った歌手もいた。エウテルペもその一人で、
「今度こそ歌うわよ。ちゃんと歌って、それから影太郎に……」
 と彼女なりに気持ちを高めていた。
 続々と入場する観客達。高倉率いる警備陣が客の手荷物を細かくチェックする。大人
数でチェックしたので作業はスムーズに進み、危険な物も発見されなかった。しかし油
断は出来ない。血車組、いやその背後にいる崑崙党はMSまで用意している。このコン
サートを文字どおりメチャクチャにするつもりなのだ。そんな暴挙を許すわけにはいか
ない。
『シャドウ・セイバーズの皆さん、頼みましたよ……』
 手荷物検査をしつつ、高倉は会長が信じた者達を信じる。



 富士山麓にあるコンサート会場から数キロ離れた森の中に、二体のジンが潜んでい
た。一体は通常の機体だが、もう一体はザフト軍でも使われている長距離強行偵察タイ
プだ。この機体は偵察用の高精度センサーとの連動により通常のジンよりも高い命中精
度を実現しており、偵察以外にも後方支援や狙撃などにも使われている。
 乗っているのはロマノフに雇われた傭兵だ。コーディネイターだが大義やプラントの
事には興味が無く、金の為なら故郷や同胞も殺す道を選んだ者達。
 今回の仕事は、あのコンサート会場を破壊し尽くす事。何も知らない一般人を殺すの
だが良心の呵責は感じず、命がけの戦いより楽な仕事だと喜んだ。
 そう、楽な仕事のはずだった。弾を一発打ち込めばそれで終わりだと思って、狙撃ポ
イントに隠れ、コンサート会場に狙いを付けた。だが、
「そうはさせないでござるよ」
 若い女の声と共に、黒いMSが姿を現した。ミラージュコロイドで隠れていたストラ
イク撃影だ。
「さすがは『スナイパー殺し』のフィア殿、敵の狙撃地点を簡単に割り出すとは。心強
い味方が加わったでござる」
 夏が操縦する撃影は腰の小太刀を抜いた。そして、突然の敵襲にうろたえる二体のジ
ンに、
「佐々山殿の熱唱を邪魔し、罪無き人の命を奪おうとする外道ども。この宮城夏の刃で
成敗いたす!」
 と名乗りを上げる。夏は燃えていた。憧れの国・日本に来た事で少し興奮しているよ
うだ。



 別の場所では、三機のジンが会場に突入する準備を行なっていた。狙撃が始まると共
に会場になだれ込み、目に付く物全てを破壊する。楽な仕事のはずだったが、
「そんな事、させるかよ!」
「佐々山さんの歌は、実はエレアさんもちょっと楽しみにしているんです。悪党ども、
邪魔は許さんぞ!」
 友の為にリトルフレームを駆る影太郎と、敬愛する女性の望みの為にケンタウロスに
乗るラグナス。燃える二人の男に見つかってしまった傭兵達は不運だった。



 フィアが敵が潜んでいると予測した二ヶ所で戦闘が始まった頃、マルコは楽屋を訪れ
ていた。シャドウ・セイバーズの面々は『佐々山の知り合いで会場の警備を手伝ってい
る』という事になっており、マルコは簡単に楽屋に入る事が出来た。
『僕はシャドウ・セイバーズのメンバーじゃないんですけどねえ』
 影太郎達を手伝うつもりは無い。夏の事は気になるが、通信によると相手はそんなに
強くはないようだし、何かあればマチルダで待機しているエレアとフィアが出るだろう
し、会場でトラブルがあれば灯が対処する。備えは万全だ。
 暇を持て余していたマルコは、あの女の子の事を思い出した。エウテルペ。口の悪い
子だったが、本番を前にして緊張しているかもしれない。
『ママはあの子が気に入ってるみたいだ。あの子がコンサートで失敗したら、ママは悲
しむだろうな』
 マルコはマチルダを降りて、エウテルペの楽屋に向かった。本番を前に忙しく駆け回
るスタッフをかわして、マルコは楽屋の扉の前に立った。
 軽くノックすると、中から「どうぞ」というエウテルペの声がした。声が少し震えて
いる。やはり緊張しているのだろうか?
 マルコはドアを開けた。部屋にはエウテルペしかいなかった。彼女は鏡に向けていた
顔をマルコに向けて、
「こ、こんにちは」
 と挨拶した。
「………………」
 マルコの心を、ある感覚が占める。その感覚に素直に従うべきか、そして口に出すべ
きかどうか一瞬迷う。マルコが大人だったら自分を納得させられる言い訳を思い付き、
その場を穏便に去る事が出来たのだが、子供のマルコはそういう術を知らず、そして我
慢出来なかった。だから口にしてしまった。
「君、エウテルペじゃないね。誰?」
 という禁句を。
 直後に激しい痛みがマルコの後頭部に走る。痛みと衝撃で立っていられず、その場に
倒れる。しかし意識ははっきりしており、人の声も聞こえた。エウテルペにそっくりな
女の子と、部屋のどこかに隠れていた男の声。
「あ、ご、ごめんなさい、歌依さん。私、一生懸命やったのに、こんなに早く…」
「気にするな。いい勉強になったじゃないか。この失敗を糧にもっといい演技をするん
だ。お前の姿形は完璧なんだ。上手くやれば絶対にバレやしないよ」
「でも、でも……」
「そんなに長い事、騙す訳じゃない。ステージの上に立てばこっちのものだ。お前は俺
が教えた歌を歌えばいい。あの絶望の歌をな。ククククククク……」
 悪魔の笑い声がマルコの耳に響く。マルコの心の中で何かが弾けようとしていた。

(2007・12/15掲載)
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