第44章
 喜・怒・哀・楽

 コペルニクス市一の高級ホテル。三十階建ての高層ビルの最上階にあるロイヤルスイ
ートルームで、マルコはゼノンと語り合っていた。
「ゼノン、あんたの理想は正しいけど間違っている」
「矛盾した意見だな。なぜだ? 能力の高い者が正当に評価され、しかるべき地位に着
き社会を管理する。この考えのどこが間違っている?」
「努力した人間が報われるのはいい。けど、努力しても能力が低い者はどうするつもり
なんだ? 落ちこぼれとして放置するつもりか? どんな理想的な社会でも、落ちこぼ
れになってしまう人間はいる。そういう人間を見捨てておけば治安は乱れ、それを力で
押さえつければ恐怖政治の始まりとなり、やがては国を滅ぼすぞ」
「ふむ。ではどうすればいい?」
「落ちこぼれを見捨てないようにすればいい。もちろん甘やかすんじゃない。誰でも入
れる専門学校や職業訓練所みたいな施設を作って、新しい道を切り開く手助けをしてや
るんだ」
「そこまで面倒を見なければならんのか。民衆を管理するというのは手間がかかるもの
だと思ってはいたが……」
「民衆はワガママで気まぐれだからな。ちょっとでも手を抜いたり、疎かにするとすぐ
に牙を向いてくる。月のような過酷な場所で暮らしている人は尚更だ」
「確かに。私のムーン・キングダムに賛同し、支持してくれる者が多いのは、地球の政
府に不満を持っている者が多いからだ。月の人間は大人しいように見えて扱い辛い。ミ
ナにはよく言っておこう」
「地球と言えば、ムーン・キングダムの件は連合には嗅ぎ付けられていないのか? 決
起前に知られたら厄介な事に…」
「心配は無用だ。連合の中にも私を支持してくれる者がいる。奴らのおかげで連合の動
きは全て把握している。ダイダロス基地のレクイエムの事もな」
「そうか。でも、世界を壊した奴を応援するとは、連合軍人としては失格だな」
「確かに。だが私にとっては貴重な戦力だ。なかなか面白い連中だぞ」
「類は友を呼ぶ、悪党の下には悪党や食わせ者が集まる、という訳か」
「貴様もその一人ではないのか?」
 ゼノンの皮肉にマルコは苦笑するだけだった。
 二人の会話は、客間の隣で待機している夏やミナ達の耳に届いていた。物騒な雰囲気
を漂わせながらも少し和やかな、奇妙な空気を感じる夏。ゼノンとマルコ、仲が良いの
か悪いのかよく分からない二人だ。
「ゼノン、マルコ君の事を気に入ったみたいですね」
 ミナが微笑みながらそう言った。
「そうなのでござるか?」
「ええ。あんなに楽しげに話をするゼノン、初めて見ました。対等の立場で話せるお友
達が出来て、嬉しいみたいね」
 友人。『恋人』としてゼノンに尽くすミナや、『部下』という立場を超えない三従士
とは違い、お互いに心を開いて話せる存在。他人にも自分にも厳しく、孤独な戦いを続
けてきたゼノンの、初めての友達。
「確かに、友が出来るのは嬉しいでござろうな。それにしても、マルコ殿とゼノン殿が
気が合うとは……」
「意外ですか?」
「うむ。ゼノン殿のやった事は許せぬでござるが、歴戦の戦士であり、稀代の傑物なの
は間違いないでござる。あれ程の男の友となるとしたら、彼と同等もしくはそれ以上の
人物でなければと思ったのでござるが…」
「あら。マルコ君だって凄い人だと思いますよ。まだ子供なのにMSに乗って、ゼノン
と互角に戦って、知識も豊富で素敵な夢も持っている。あんな人、そんなにいないと思
いますよ」
 耳を澄ませると、マルコとゼノンの会話が聞こえる。月の今後について語っていた二
人だったが、いつの間にか話の内容は変わり、マルコは自分の夢を語っていた。
「俺はあの男の、バルドル・カッフェの遺志を受け継ごうと思う。あの男が助けたかっ
た命を助けて、この世界を守る。それが俺の夢だ」
「立派な夢だな。世界を壊した私では成し得ない、素晴らしい夢だ。MSによるレスキ
ュー部隊か。ムーン・キングダムでも作るべきだな。前向きに検討しよう」
「部隊を作るのなら俺も手伝う。月だろうと地球だろうと、苦しんでいる人がいるなら
助けたい」
「その志、大いに結構。期待するぞ、マルコ」
 熱い夢を語るマルコと、友の夢を認めるゼノン。ここからでは見えないが、握手でも
しているのかもしれない。
「マルコ君、ゼノンのいい友達になってくれそうですね。もう少し早く会っていれば、
ゼノンも悪い事をしなかったかも……」
 悔やむように言うミナ。一方、夏はマルコの力強い声に心を揺さぶられていた。
『他人の遺志を受け継ぐというのは、楽な事ではない。マルコ殿はそれを承知の上で、
それでもやろうとしている。ミナ殿の言うとおり、凄い人物に成長したのでござるな』
 二年前、なぜか影太郎にムキになって対抗していた子供はもういない。子供から大人
になりつつあるマルコの事を考えると、夏の心の中で何かが芽生える。
『!? せ、拙者は何を考えているのだ! こんな時に、子供相手に、まったく!』
 自戒する夏。成長したと認めたマルコの事を、再び子供扱いしている。このおかしな
矛盾には気付いていないようだ。自分の気持ちを誤魔化すように、彼女は別の事を考え
る。
『それにしても、エレア殿とラグナス殿は遅いでござるな。艦にも戻っていないようだ
し、一体何処に行ったのか。レインボースター、いや七華殿もいつの間にか姿を消して
いるし、皆、自由に行動し過ぎでござる。年長者のカテリーナ殿もまだ立ち直っておら
れぬようだし、ここは拙者がしっかりしないと』
 マルコの事を考えないよう注意しながら、気を引き締める夏。可笑しくも複雑な女心
である。



 夏にその行方を案じられていたエレアとラグナスは、町外れの廃工場にいた。二人は
そこで、変わり果てた姿となった友と再会していた。
 美しい女と機械の頭を宿した男。二人の前には金色に輝く獅子のロボットがいる。こ
の奇妙な組み合わせを、物陰から見つめる女が一人。
『ど、どういう事よ……? どうなってるのよ、どうして? 分からない、何が何だか
分からない!』
 桜道七華が混乱するのも無理は無い。彼女の想い人、宇流影太郎が生きていた。それ
は嬉しい。だが、彼は人間ではなくなっていた。黄金の獅子の形をしたロボット、ゴル
ド。それが今の影太郎だと言う。
『信じられない。そんなの信じられない。どうして? どうしてこんな事に……』
「クーン……」
「しっ。黙って、レウ」
 パニックになりながらも七華は気配を殺し、エレア達の会話を盗み聞きする。彼女に
抱きかかえられたレウも声を潜めた。本当は飛び出したいだろうに、七華が真実を知る
為に我慢してくれている。本当に賢い犬だ。
 ゴルドとラグナスは一本のコードと小さな機械によって繋がれていた。言語機能を持
たないゴルドは、サイボーグであるラグナスの口を借りて話をする。ラグナスの野太い
声が響き渡る。
「ああ、久しぶりに人と話せる。こうやってまた人の言葉を喋れる様になるとは思わな
かった。ありがとう、エレア」
 声はラグナスのものだが、口調は全く違う。懐かしいこの感じ、七華はしっかり覚え
ていた。間違いない、あれは影太郎だ。ゴルドは宇流影太郎だ。
「お礼なんて良いわよ。影太郎君には苦労させちゃったから」
「苦労なんてしてないさ。確かに人間じゃなくなったが、二年前のネメシスとの戦い、
あの結末から考えると、生きていられるだけでもラッキーだ」
 ゴルド、いや影太郎は二年前、宇宙にあるアメノミハシラの近くでネメシスと戦い、
共に地球に落ちた。大気圏突入時のダメージによってネメシスは大きく傷付き、影太郎
も瀕死の重傷を負った。
 死にかけていた影太郎を救ったのは、ネメシスを回収しに来たアンドレイ・ロマノフ
だった。彼はリトルフレームから影太郎を引きずり出してネメシスと共に連れ去り、影
太郎の脳をライオン型ロボットに移植したのだ。
 アンドレイが敵である影太郎を助けた理由は二つ。一つは、影太郎が優れた人物であ
り、その知識と肉体がネメシスの復活に役に立つから。
「あいつは俺の頭の中から色々な知識を引き出した。アルベリッヒ・バーネットの記憶
もな。そのデータがネメシスの復活と再生にどう使われたのかは分からないが、役に立
ったのは確かだろうな」
 悔しそうに言う影太郎。必死の思いで倒した強敵が、自分のせいで蘇ってしまったの
だ。戦士としてこれ程の屈辱は無い。
 その気持ちは、アンドレイが影太郎を助けたもう一つの理由に繋がる。もう一つの理
由とは、制裁。ネメシスを倒すという大罪を犯した影太郎を、ロボットにして生き地獄
に落とす。ロボットに施されたプログラムによって、影太郎はアンドレイやダブルZに
は逆らえない。喋る事も、牙を向く事も出来ず、ただ只管にかつての敵に仕えるしかな
い。まさに生き地獄だ。
「酷い話ね……。許せないわ」
 エレアが怒っている。盗み聞きしている七華も同じ気持ちだった。アンドレイ・ロマ
ノフ、影太郎を苦しめている男、絶対に許せない!
 怒りに震える女達。だが、苦しんでいるはずの本人は、
「いや、俺の事はどうだっていい。こんなの地獄でも何でも無いからな」
 と平然と言う。強がっている様子は無い。影太郎の心の強さは二年前と変わっていな
いようだ。それが嬉しくもあり、哀しくもある。
「エレア、本当に生き地獄に落とされたのは俺じゃない。あいつ等だよ」
「あいつ等?」
「あの四人の事だ。ナイン・ソキウスにエウテルペ・テレプシコーラ、クロナ・ギウム
にミステリウス・マゴット……。ダブルZという歪な存在にされてしまった、あの四人
こそ最大の被害者だ」
 人類の抹殺を企むダブルZが、今回の事件の最大の被害者? 矛盾に満ちた影太郎の
発言であるが、それは事実だった。



 暗く、狭い道。幾つも存在する曲がり角。まるで迷路のような空間を、アキ・ミツル
ギは必死で走っていた。
「はあ、はあ、はあ……くっ!」
 走り疲れて吐きそうになるが、吐き気を堪えて足を前に出す。そして走る。背後から
迫る殺意から逃げる為に。
「あれー? まだ逃げるんだ。いくら逃げても無駄なのに、どうして逃げるの? みっ
ともなーい」
 あどけない女の子の声が、闇の迷宮に響き渡る。アキとよく似た声だが、無機質なよ
うで不気味さを感じさせる奇妙な声だ。
「ホント、みっともない子。顔も、名前も、ホンモノじゃないのに堂々と名乗って、他
人の振りをしてる。昔の自分を捨てたつもりになって、新しい人生を生きようとしてい
る。何てみっともない。あんたの事、軽蔑するわ」
「………………」
 アキは反論しなかった。両親が付けてくれた名前を捨てて、忌まわしい過去を忘れた
振りをして、みっともなく生きている。これは全て事実だ。認めるしかない。
「あんたみたいなおバカな奴なんて、死んじゃえばいいのよ。なのにどうして生きてる
の? 死に損なったの? だったら私が殺してあげる」
「!」
 逃げ続けるアキの前に、小さな人影が立ち塞がった。アキと同じ顔、同じ声を持つ少
女。全てがアキと瓜二つで、アキをコピーしたかのような女の子。いや、違う。彼女の
方が『本物』なのだ。
「私と同じ顔をした奴がこんなクズだなんて、最高にムカつくのよ。だから殺してあげ
る。私が、ダブルZが、エウテルペ・テレプシコーラが、テルペが殺してあげる」
 死刑宣告と共に、エウテルペはアキに銃を向ける。同じ顔をした二人が、殺す者と殺
される者として向き合う。
「…………私の事がそんなに嫌いなの?」
 闇の迷宮に放り出されてから、初めてアキが口を開いた。問われたエウテルペはすん
なり頷き、
「嫌い。大っ嫌い。あんたの事を知った時から嫌い。私と同じ顔をしているくせに私じ
ゃない女。私が選ばない道を歩いている女。最低の道を選んだ最低の女。この手で殺し
たいと思っていた」
「確かに私は最低な事をしてきた。でも、私の選んだ道は最低じゃない」
 アキは忌まわしい記憶を思い出す。悪魔のような男に利用され、優しかった親を殺し
てしまった日。それ以来、心を閉ざしてあの男の道具として扱われた日々。死にたくな
る程の悪夢だったが、だからこそ彼女は新たな道を選んだ。自分を救ってくれた少年の
為に戦い、生きるという道を選んだのだ。その道が間違っているとは言わせない。あの
人の為にも、絶対に言わせない。
「何よ、その目は。テルペを殺すつもり? そんな事があんたに出来るの? 今のテル
ペは強いわよ」
「…………」
 アキはエウテルペによって、この迷路に放り込まれた時を思い出す。組織に身を投じ
てから訓練を積んできたアキを、エウテルペはあっさり倒した。殴られ、蹴られ、投げ
飛ばされ、死の危険を感じたアキは迷路に逃げ込んだのだ。それさえも獲物を追い詰め
る為のエウテルペの罠だったのだが。
 とにかく、素手ではアキに勝ち目は無い。ならばエウテルペが持っている銃を奪い取
って、彼女を撃つしかない。
「無駄話はここまで。さよなら、アキ・ミツルギ」
 エウテルペが引き金にかけた指に力を入れる。瞬間、アキは全力で疾走。一瞬でエウ
テルペとの間合いを詰めて、銃を持つ手に拳を当てる。
「うっ!」
 衝撃と痛みで、エウテルペは思わず銃を放す。そして銃が地に着く前、アキは銃を手
に収めた。即座に銃口をエウテルペに向け、引き金を引く。
 が、銃から弾は出なかった。出されたのはカチッ、という乾いた音だけ。
「バーカ」
 アキを嘲笑いつつ、エウテルペは彼女の顔を殴った。弾の入っていなかった銃が宙を
舞い、アキの体は地に伏した。
「あんたって最高にムカつく。だから銃なんかで楽には殺さない。あんたは私がこの手
で直接…」
「直接、どうするつもりだ?」
 突然現れた青年の声が、迷宮の闇を裂く。訓練用の地下迷路の天井に光が灯り、闇に
包まれた世界は消えた。
「もう一度聞く。アキ・ミツルギをどうするつもりだ?」
 現れたのはナイン・ソキウスだった。クロナとマゴットも彼の後ろにいる。
 マルコ達にとって最大最悪の敵、ダブルZを形成する四人が一堂に会した。四人の意
思は一つであり、四人は同一の人格を持つ存在である。はずなのだが、今回だけは違っ
た。
「どうするつもり、ですって? 分からないの? 殺すのよ。このクソ女を殺してやる
の。私のこの手でね。邪魔しないで!」
「そのような無駄な行為は私は望んでいない。他の二人も同様だ。四人の意志が統一さ
れていないのであれば、それはダブルZの意志ではない。お前の行為は許可できない」
「ソキウスの言うとおりよ。私もマゴットも、アキの死は望んでいないわ」
「クロナまで……! だったら何でこの女を連れてきたのよ! 私を最高にイライラさ
せる、こんな奴をどうして!」
「それがダブルZの意志だからだ。お前もそれを望んだはずだ」
「ええ、望んだわ。私がこの手で殺す為にね! だから…」
「許可できない。私とクロナ、そしてマゴットがこの女を連れて来たのは、お前に殺さ
せる為ではない」
 ナイン・ソキウスは倒れたアキに近づき、彼女を抱き起こす。彼の目は冷たい輝きを
宿している。まるでよく出来た人形の目だ。
 それはクロナとマゴットも同じだった。いや、マゴットの目は違う。怒りと苛立ちで
目を輝かせているエウテルペの目とも違う。マゴットの目には何かを哀れむような、不
安さを宿した輝きがある。
「エウテルペ。お前は自分のすべき事を忘れたのか? それとも間違えているのか?」
「うっ……」
 ナインの厳しい声に、エウテルペが身を竦める。
「お前のやるべき事はアキ・ミツルギを殺す事ではない。怒りの感情のままに動く事で
もない。お前が学ぶべき感情は『喜』、喜びのはず。『怒』の感情の担当はクロナだ」
「喜べですって? こんなムカつく女が側にいるのに、私に喜べって言うの? そんな
の無理よ。私を喜ばせたいのなら、この女を殺させて。そうしたら私は最高に喜んでや
るわ! 大笑いしてやるわよ!」
「それは許可できない。私もクロナもそんな事は望んでいないし、何よりマゴットが望
んでいない」
「私達四人の中では、今はマゴットの意志が優先されるわ。『楽』の感情を学んで成長
した彼女の意志を上回らない限り、あなたの行動は許可されない」
 クロナは冷淡にそう言う。その冷淡さに落ち着いたのか、エウテルペは高ぶった心を
落ち着けるかのように息を付く。
「はあ……。分かったわ、その女はもう少しだけ生かしてあげる。そいつを殺したいの
なら、私も成長しないとダメなのね。だったらやるわよ。喜びの感情を学んで、私とネ
メシスを強くする。それでいいんでしょう?」
「そうだ。それがお前の役目であり、私達の役目。そして、ダブルZのやるべき事だ」
 ナインの言葉にクロナも頷く。が、マゴットは頷かず、気絶したアキをじつと見つめ
ていた。



 廃工場での黄金の獅子の話は続く。
「ダブルZはダブルGの怨念そのもの。ダブルGが自分に万が一の事があった時の為に
用意した、奴の予備システムだ」
 ジョージ・グレンの細胞を植え付けられた者、あるいはジョージ・グレンの細胞から
作られたクローン等を精神的にリンクさせ、超バイオコンピューターに進化したダブル
Gに匹敵する性能を持たせる。ダブルGのような本体を持たないが、その遺志を引き継
いで起動したプログラム。実体を持たない電子の亡霊。それがダブルZの正体だ。
 ソキウスとして生まれる際にジョージの細胞を埋め込まれたナイン。幼少の頃に見出
され、ジョージの細胞を埋め込まれたクロナとエウテルペ。そしてジョージの純然たる
クローンであるマゴット。四人は今、ダブルZとして一つの意思を共有している。今の
彼等に昔の心は無い。
「記憶はあるが、人格が全く違っている。今の四人にとって昔の記憶は、単なる記憶で
しかない。俺達と一緒に過ごした事も、戦った事も思い出ではなく、データみたいに扱
われている」
 人の心を無くした四人だが、それ故に足を止めてしまった。ダブルZはダブルGを倒
した『人間』に対抗する為、ネメシスを強化する事にした。それと同時に敵である人間
のことを知ろうとしたのだが、人の心を失ったナイン達の記憶から、それを知る事は出
来なかった。
「次にダブルZは俺に目を付けた。人の心を覚えたまま、ロボットにされた俺の心を知
ろうと自分達の側に置いた」
 それでも人の心を完全に理解する事は出来なかったが、ダブルZは人の心が四つの感
情によって成り立っている事を知った。
 喜怒哀楽。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。人が人である証とも言えるこの四つの感情
を知る為、ダブルZは行動を開始した。
 人間の感情を知り、敵を理解する事によってダブルZはその性能を高め、ネメシスを
強化する。マゴットが『楽』の感情を理解した事によって、ネメシスは強くなった。残
り三つの感情を知れば、ネメシスは最強最悪の存在となるだろう。
「そうなる前にネメシスを止めてくれ。俺も出来る限りの事はする」
 影太郎の頼みに頷くエレア。しかしなぜ彼女だけに頼むのか? 夏やマルコに真実を
明かしてもいいのでは?
「駄目だ。マルコも成長したようだが、あいつの心には俺の影が残っている。俺の事を
知れば怒りで我を忘れて、ダブルZを倒そうと無謀な行動をするだろう。夏や他の連中
も同様だ。仲間思いなのは変わってないようだからな」
 だが、エレアは違う。彼女も影太郎の事を思ってはいるが、冷静さを失わない強さも
持っている。地球を傍観してきたマーシャンらしく、一歩後に下がって様子を見る観察
眼と、研究者としての冷徹さが彼女を私情に走らせない。
「そう評価してくれるのは嬉しいけど、私だって怒る時は怒るわよ。特に、あの男に対
してはね」
 エレアは憎き仇敵の顔を思い浮かべる。アンドレイ・ロマノフ。影太郎と出会った頃
から気に入らない相手だった。エレアが桜道会に入ってからは商売敵となり、今は明確
な敵となった。影太郎の人生を狂わせた男、絶対に許さない。
「エレアはマルコを上手くフォローしてやってくれ。俺はネメシスの成長を少しでも遅
らせるよう頑張ってみる」
「分かったわ。でもそっちは大丈夫なの?」
「何とかなるさ。俺一人だけじゃないからな」
 その時、ゴルドの体から発信音が鳴る。通信機の音らしく、音が止むとどこかで聞い
た声が流れた。
「影太郎さん、アキちゃんが大変なんです! いえ、もう大変じゃなくなったけど、エ
ウテルペがキレて、ナインとかマゴット様に叱られて、ああ、とにかくちょっと厄介な
事になってるんです。すぐに戻ってください!」
 切羽詰った声による通信が切れた。影太郎はやれやれ、とため息を付いて、
「ポーシャの奴め。仕方ない、タイムアップだ。俺は戻る。後はよろしくな」
「分かったわ。何かあったら今日みたいに私専用の暗号回線を使って」
「ああ。ラグナスも頼んだぞ。エレナとマルコ達を守ってやってくれ」
 自分の口を借りて話す獅子に、ラグナスはコックリと頷いた。その拍子にラグナスと
ゴルドを繋いでいたコードが外れた。絆を分かたれたゴルドはエレナ達に背を向け、廃
工場から駆け出していった。
 残されたエレアは、力無く息を付く。
「重いモノを託されちゃったわね。ラグナス、いいわね?」
「もちろんです。彼には世話になったし、ロマノフやダブルZ、ネメシスをこのままに
はしておけません。出来る限りの事はしますよ」
「そう。じゃあ戻りましょう。私達の戦いを始める為に」
 二人もまた、廃工場を後にした。だが、この場にはまだ二人、残っていた。
 いや、正確には一人と一匹。桜道七華とその愛犬レウ。影太郎に心を寄せる者同士で
あり、彼の告白に最も衝撃を受けた者達。
「何なのよ……。何なのよ、どうして、どうしてこんな……」
「クゥゥゥゥゥゥン…………」
 レウの哀しげな声が、無人の工場に木霊する。続いて、すすり泣く少女の声。



 ゼノンが滞在しているホテルのロイヤルスイートルームには、大型のテレビが置かれ
ている。無駄に大きいそのテレビのモニターには、先日ゼノンによって助けられた男が
熱弁を振るっていた。
「……というような事もあり、私は月の人々によく考えてほしいのです。今の自分の考
えが本当に『自分で考えて出した結論』なのか、悪質な扇動者に煽られていないか、生
活の不満を晴らす為に耳に心地いい言葉に躍らせているのではないか、ようく考えてほ
しい。例えば今、地球とプラントの戦争が再び始まり、これを機に月は独自の動きをす
べきだという考えがあると聞きます。月の独立、なるほど一見素晴らしい考えだと思え
ます。ですが、果たしてそれは本当に月の、皆さんの為になるのでしょうか? 地球へ
の反発を理由にするのではなく、行動する前に少し考えてほしい。それから…」
「ヌ、ヌリボトケ先生、その話題はその辺で。一旦CMです」
 司会役のアナウンサーがそう告げると、画面は別の映像に変わった。男には一切関係
ない生理用品のCMを無視して、マルコはゼノンと話をする。
「キョウシガ・ヌリボトケか。あの先生、あんたに助けられたのに恩を感じていないよ
うだな。あんたの月独立計画には反対のようだが、いいのか?」
「構わん。人にはそれぞれの考えがあり、意見がある。それを述べるのは万人全てに与
えられた権利だ。テロなど物理的に私の邪魔をするのであれば別だがな」
 自分の考えを否定されたのに、ゼノンは微笑んでいる。
「むしろあの男には好感を抱いたよ。助けてもらった者に逆らう事になっても自分の考
えを変えず、曲げない。敵になるかもしれないが、ああいう頑固な人間は信用できる」
「なるほど」
 マルコは納得した。そういえばゼノンの周りにいるのは、ミナといい三従士といい、
自分の意志を曲げない強い心の持ち主ばかりだ。そしてマルコも、
『って、これは自画自賛だな』
 苦笑するマルコを気にせず、ゼノンは話を続ける。
「それに私に反対する者は多い方がいい。私が力で強引に事を進めれば進める程、私と
は正反対なやり方をするミナへの支持が高まる。民の支持さえ得られれば月の独立国、
ムーン・キングダムも安泰だ」
「ゼノン……」
 自らの死を受け入れ、死後の国や恋人の事まで考えているこの男に、マルコは感服し
た。非情にして温厚、冷酷にして激情。相反する心を持ちながら、精神を破綻させず
堂々と生きている。その心の強さが眩しい。
『俺はどうなんだろう? もうすぐ自分が死ぬと知っても、この男みたいに生きられる
だろうか? この男や、影太郎のように……』
 死期を知りつつもそれを受け入れ、臆する事無く生きる者達。マルコは彼等に憧れ、
そうなりたいと思っている。心も体も強くなりたいというマルコの思いは、日に日に増
している。



 善と悪、光と闇、情と非情、優しさと闘志。
 相反する二つの心を持ちながらも、それに振り回されずに生きる男がいるなら、そう
でない者もいる。もっとも、その者は人間ではない。精巧に作られた電子頭脳だが。そ
れ故に迷い悩んでいる。
【闇(アン)、どうしたんだよ、ずっと黙って。何かあったの? 闇(アン)】
【……………………】
【本当にどうしたのさ、闇(アン)。最近の君はちょっと変だよ。急におしゃべりにな
ったり、黙っちゃったり、戦闘中も何だか…】
【うるさい】
【えっ?】
【うるさい、と言ったんだ。光(コウ)、お前こそ黙れ。何も言うな、しゃべるな、語
るな、こっちに来るな、来るな、来るな、来ないでくれ!】
【闇(アン)、どうしたんだよ。最近の君は分からないよ。一つの機体に集って一緒に
戦っているのに、どんどん君が遠ざかっているような気がする。どうして?】
【うるさい! そんな事、俺が知るか! 黙れ、黙れ、黙れ!】
 電子の海の中で会話を交わす光(コウ)と闇(アン)。彼等は二人で一人、一つの意
志が二つに分かれた二重人格のプログラム。生と死の名を持つ機体に分かれていた人格
が集まり、共に過ごすようになった。だがそれは、闇(アン)のプログラムに何らかの
影響を与えているようだ。
 二つ三つと分かれたものは再び集い、一つに戻るのが自然な流れ。だが、その流れに
逆らうか、流されるままに流れていくかを決めるのは、人の意志。オーバーデスフレー
ムの電子頭脳にも意志はある。人と同じ、いやそれ以上に緻密で、精巧で、それ故に脆
弱な機械仕掛けの意志が。
【俺は、俺はどうなっていくんだ? これからどうなるんだ? 誰か教えてくれ、助け
てくれ、光(コウ)、光(コウ)、俺は、俺は!】
【闇(アン)、君は……】



 月の中立都市として戦火からの安全を保障されているコペルニクスには、自然と多く
の人が集まる。世界情勢がきな臭くなれば尚更だ。コペルニクス市の役所は、安全と平
和な生活を求め移住を希望する人の対応で、てんやわんや状態である。
 それは市外も例外ではない。移住してきた人が新しい店を開いたり、家を作ったり、
騒ぎを起こしたりと賑やかな様子を見せている。
 トラブルも多いが、人の『生』を感じさせる町。コペルニクス市は今日も概ね平和で
ある。
 市の一角に大きな公園がある。月という不毛の地には相応しくない程に緑生い茂るこ
の公園は、長年憩いの場として市民から愛されている。
 広い公園の所々に小さな露店がある。綿菓子やホットドッグなど、公園で遊ぶ人達の
小腹を満たす食べ物が売られている。
 こうした露店の中でも特に賑わっている店がある。いやその店は『露店』というレベ
ルではなかった。巨大なトレーラーの荷台が変形して、普通のレストランに勝るとも劣
らない厨房と客席が作られている。荷台の上にある看板に書かれた店名は、
「地球の砂漠から月の裏側まで、どこにでも移動する神出鬼没の和風喫茶・風花屋二号
店にようこそ! 毎度おおきに!」
 元気のいい挨拶で大勢の客を出迎えるこの少女こそ、この店の店主、松本茜。イスタ
ンブールでの佐々山一郎引退記念ライブで稼いだ後、世界中を旅した後、ついに月にま
でやって来たのだ。
「いやー、このドデカいトレーラーを月まで運んでもらうのには苦労したけど、その甲
斐はあったなー。お客様はみんな喜んでくれるし、ウチも儲かって、みんなハッピー
や。おーし、この調子でどんどん儲けて…」
「こんにちわ」
 張り切る茜に声をかけたのは、常連客の一人。茜と同じ女性で、右目を眼帯で隠して
いる。ドクロ模様の眼帯は少々不気味だが、茜とは年も近い事もありすぐに仲良くなっ
た。だが彼女には、大きな悩みがあった。
「こんにちわ、クロナ。双子のお姉さんはまだ見つからないの?」
「ええ。探してはいるんだけど、連絡も無いの。無事でいてくれればいいんだけど…」
「大丈夫、私の方でも色々聞いて回っているし、絶対に見つかるわ。注文はいつもので
いい?」
「ええ、お願い」
 数分後、クロナのテーブルにはオムライスが運ばれてきた。卵がふわふわになるよう
作られたこの店の特製オムライスは、クロナのお気に入りだった。オムライスに付き物
のケチャップはかけず、卵とチキンライスの味の組み合わせを楽しむ。
「美味しい……」
 クロナの顔に、ごく自然に笑みが浮かぶ。美味しい物を食べると人は笑顔になるもの
だ。それはダブルZの一部となったクロナも例外ではない。だが、
『これではダメ。私が知らなければならない感情は怒り。喜びの感情はエウテルペが学
ぶべきもの。私が学んでも、何の役にも立たない』
 そうと分かっていても、クロナはこの店に来てしまう。美味しいオムライスを食べる
為だけではない。忙しく動き回りながらも笑顔を絶やさないこの店の店主、松本茜に会
う為に。
 数日前、コペルニクスの町を偵察のつもりで歩き回っていた日、賑わっているこの移
動喫茶を見つけて、茜を見た。どんな時でも笑っている彼女に興味を抱き、自分から話
しかけた。双子の姉を探しているというクロナに茜は同情して、親しくしてくれた。出
会って間もないが、二人は友達になった。
 孤独の中で生きてきたクロナ・ギウムにとって、茜は初めて出来た友達だった。ずっ
と茜と一緒にいたい。失いたくない。裏切りたくない。殺したくない。でも、ネメシス
が強くなり世界を壊し続ければ、いずれは茜を殺すかもしれない。
『そんなの嫌。でも、私は私の運命には逆らえない。神様がくれた運命に逆らっちゃダ
メ。ダメなの……』
 クロナはもう一人の自分に会いたかった。二年前、ダブルGの分身として覚醒した際
に消えてしまった、もう一人の自分。強くて、ずる賢くて、神を崇めるクロナを否定し
つつ、危険な時には戦ってくれた優しい人。
「ミスト……」
 クロナがポツリと呟いたその名前を、茜も聞いた。行方不明だと聞かされているクロ
ナの姉の名前だ。
『クロナのあんた辛そうな顔、見とうないわ。お姉ちゃん、早く見つかってくれればえ
えんやけどなあ』
 純粋にクロナの姉の身を心配する茜。だが、クロナの探し人がクロナの心の中にいる
事には気付かなかった。当のクロナも、まだその事実に気付いていない。二つの心を持
ち、それに苦悩する者がまた一人。



 クロナが悩んでいたその頃、ナイン・ソキウスもコペルニクスの町にいた。
 エウテルペの暴走を押さえた後、所用から戻ってきたロマノフにエウテルペの事を言
うと彼はため息を付いて、
「精神的に未熟すぎますね。やはりこんな地下深くに籠もっているだけでは、皆さんの
成長は出来ません。特にナイン様、あなたはここに来てからずっと地下にいますね。た
まには外に出られては如何でしょうか?」
 と提案した。
 確かに、度々抜け出しているエウテルペやマゴット、クロナと違い、ナインはずっと
地下の秘密基地にいた。忙しいロマノフや女三人が出かけている間の留守番役のつもり
だったのだが、
「私はしばらくこの基地にいます。エウテルペ様達の事は私に任せて、あなたは外を歩
いて来てください。そして、その心を成長させてください」
 とロマノフに言われて、地上に出たのだ。
 しかし一人だけで出るのは危険だ、とも言われたので連れを持ってきた。コペルニク
ス市の町外れを、ナインは連れを抱えて歩く。
「…………すいません、そろそろ降ろしてもらえませんか? 人が少ない場所とはいえ
ジロジロ見られるのは恥ずかしいので」
「そうか。すまない」
 ナインは素直に謝って、連れて来た少女を降ろした。
「ありがとうございます。しかし久しぶりの地上が月の上というのは、喜んでいいのか
哀しんでいいのか、分かりませんね」
 アキ・ミツルギはそう言って、ため息を付いた。
「ふむ。お前達人間には、そうやって無駄な事で迷う時期はあるのか」
「時期というのは少し違います。それに『人間には』って、あなた、人間じゃないみた
いですね」
「そうだ。私はダブルGの後継者、ダブルZ。その一部を司る者だ」
「…………本当にそうなんですか?」
「そうだ」
「いいえ、人間です」
「違う。私はダブルZだ」
「違います」
「違わない。昔はそうだったとしても、今は違う。だから違うのだ」
 変わり果てたかつての仲間を見て、アキの心に暗雲が広がる。
「昔の事をみんな、影太郎さんやマルコ達と一緒に旅をしていた頃の事、全部忘れちゃ
ったんですか?」
「知らない。不要な記憶だから忘れたのだろう」
「不要ですか? ブルーコスモスの人形として扱われていたのを救った人の事も、不要
だから忘れたんですか? そんなの、そんなのって!」
「あまり騒ぐな。周りの者に気付かれたら、機密保持の為、私はお前を殺さなければな
らない」
 冷たく言うナイン。今の彼に、以前のような人間らしさは感じられなかった。心も言
葉も冷たく、冷え切っている。
「お前を連れ出したのは、基地に残しておけばエウテルペがまた妙な事をするのではな
いかという心配があるからだ。昔のお前と私がどんな関係だったのかは知らないが、助
けてもらえるなどという期待はするな」
「……………………」
 冷たく言われたアキは失望する。この男はもう、かつての仲間だったナイン・ソキウ
スではないのだ。
「逃げようとしたり、誰かに助けを求めたりするな。その時はネメシスでこの町を焼き
払う」
 淡々とした調子で、恐ろしい事を言うナイン。その冷静すぎる言動が、彼が本気で言
っているのだと思い知らされる。
「分かっています。そんなに念を押さなくても、私は逃げるつもりはありません」
 アキは、しばらく敵の懐に留まる事を決めていた。ネメシスとその頭脳となる四人、
それにロマノフ達。倒すべき敵は多く、情報は少しでも欲しい。捕らわれの身ならば、
敵の内部事情を知る事も出来るだろう。
 ナインは足を進め、アキはその後を追う。微妙に緊張感を漂わせた二人は、市の中央
道路を歩く。
 道を行き来する車は、一人乗りだったり、カップルだったり、仲の良さそうな親子だ
ったりと多種多様。見ているだけで心が和む。
「ふん。やはり見ているだけでは『哀しみ』は学べないか」
 そう言ってナインは、車が走る道に飛び出そうとした!
「ちょっ、ちょっと待って!」
 アキが止めるのが間に合わなかったら、ナインは車に轢かれていただろう。いや、エ
ウテルペのように強化されているのだとしたら、飛ばされるのは車の方かもしれない。
「なぜ止める。私の邪魔をするな」
 不服そうに言うナインに、アキは捕虜の立場も忘れて呆れた。
「この世界の為にはあなたは死んだ方がいいのよね。だから止めたくはないんだけど、
自殺しようとする人がいたら止めるわ。それは人の義務、いいえ、本能だから」
「義務? 本能?」
「そう。人は一人では生きていけない。助け合わないと何も出来ない。だから誰かがピ
ンチになったら、私は助ける事にしている。例えそれが敵であっても」
「マルコ・フィオーレと殺し合っている女とは思えない発言だな。それはメレア・アル
ストルの考えなのか?」
「あの人は関係ない。それより、そっちこそどういうつもり? どうして車に轢かれよ
うとしたのよ」
「私は『哀しみ』という感情を知らなければならない。人間の体が涙を流すのは、体を
負傷した時が一番多い。だからこの傷付けて泣き、哀しくなろうとした」
「……………………」
 アキは頭が痛くなった。
「あなたって、真面目すぎてバカになってるのね」
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味よ」
 こんな馬鹿が世界を滅ぼそうとしている連中の一人とは。アキは驚きと戸惑いと、呆
れた心を隠せなかった。
 奇妙なコンビが町を歩く。だがその後ろに、忍び寄る影が一つ。小さな犬を頭に乗せ
たその影の正体は、怪盗レインボースターこと桜道七華。
「艦に戻る途中で見た時は、まさかと思ったけど……。やっぱりアキとナイン・ソキウ
スって奴よね。どうしてこんな所にいるのかしら?」
「クゥン」
「分かってるわ、レウ。あの二人の後を付けて、ダブルZの居場所を見つけましょう」
 気配を殺し、建物の影に隠れながら、七華はナインとアキを付ける。二人が地獄への
案内人になるとも知らずに。



 月の地下にあるダブルZの秘密基地。その一室、暗闇に包まれた部屋に電気の明かり
が灯されると、
「あっ!」
「うわっ!」
「ひいっ!」
「ガウ」
 四者四様の声を上げる。電灯のスイッチを押したロマノフは四人を、いや正確には三
人と一匹、いやいやもっと正確には三人と一体を厳しい目で睨む。
「こんな所で何をしている。ポーシャ、君には仕事をサボる余裕など無い筈だ。やるべ
き仕事はまだ残っているだろう。オマケの二人もだ」
「は、はい、すいません」
 大人しく頭を下げるポーシャ。彼女の子分二人も、不服そうだが一応頭を下げた。
「ガルルル……」
 ゴルドが怒ったような声を上げた。多分文句を言いたいのだろうが、言語機能を持た
ないその体では何も言えない。その滑稽な姿に、ロマノフの機嫌は少し良くなった。
「まあいい、仕事をサボっていた事は大目に見てやろう。三人とも、さっさと仕事場に
戻りたまえ」
「は、はい。あの、ロマノフ様、マゴット様は……」
「心配するな。彼女は至って元気だよ。今、彼女に死なれては困るからな」
「会わせてはもらえないんですか?」
「部下として心配するのは分かるが、君と彼女を会わせても我々の得にはならない。む
しろ彼女の精神に悪影響を与えるかもしれない。悪いが、全ての事が済むまでは会わせ
られんな」
「そうですか……。分かりました、せめてお仕事は頑張りますから」
「うむ。くれぐれもサボらないように」
 そう言って部屋を出て行ったロマノフ。その背に向かって、ポーシャとその子分達は
アッカンベーをした。子供か。
「ガウ、ガーウ、ガウ、ガウ…」
 突然、ゴルドが吠えた。
「待って、ゴルド、いえ影太郎さん、今、解読するから。えーと、このパターンは…」
 短い調子と長い調子を組み合わせたゴルドの吠え声。そのパターンは、モールス信号
に酷似している。
 宇宙海賊のたしなみとして、ポーシャはこういう信号関係の知識は豊富である。ゴル
ドの吠え声のパターンを見抜き、彼の正体を知り、こき使われていた二人の子分も仲間
にして協力する事にしたのだ。
「こんな陰気な所、さっさと出ないとマゴット様が危ない……。ネメシスになんかさせ
ないし、ダブルZなんかにもしない。絶対、一緒に脱出してみせるわ!」
 強く決意を言うと共にゴルドの吠えが止まった。ポーシャは記憶を総動員して、暗号
の解読を進める。
 平和だった月の世界に、嵐が吹こうとしていた。その時は、誰が思うよりも近い。

(2009・7/8、前半掲載 7/15、後半掲載)

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