第14章
 目覚める記憶

 漆黒のロングダガー、アサシンダガーは夏のケンタウロス、ラグナスのディン、そし
てジャンの白いジンを相手に優勢に戦っていた。
 マクシーが乗っているアサシンダガーは決して強力なMSではない。それどころか失
敗作と見なされ、開発が中断された機体だ。パワーやスピードはロングダガーやデュエ
ルダガーの方が上だろう。
 しかし、この欠陥品にも等しい機体を、マクシーは自分の手足のごとく操っていた。
マクシーが操縦桿を動かす度にアサシンダガーは素早く動いてケンタウロス達を翻弄
し、その手に握ったナイフで切りかかる。ケンタウロスは右肩を切られ、ディンは翼の
一部を貫かれ、白いジンの剣は刃を両断された。
「くっ、この男、強い……!」
 額に冷や汗を流すジャン。幾多の戦場を戦い抜き、『煌く凶星「J」』と呼ばれた程
の男さえ、マクシーの強さには恐怖を感じていた。
 三人が苦戦しながらもアサシンダガーを食い止めている間に、基地に戻った教導隊の
面々が出撃してきた。先行量産され、配備されたばかりのストライクダガーが十二機、
あっという間にアサシンダガーを取り囲む。
「こういうのは大勢でいたぶるみたいで好きじゃないけど、仕方ないか。たった一機の
MSに基地を落とされるわけには行かないからな」
 ジョナサンの言うとおりである。エドやジェーン、そして他の九人のパイロット達も
教導隊の一員としてのプライドをかけて戦おうとしている。
 しかし、その闘志はマクシーにとっては極上の馳走に等しいものだった。
「うーん、いい感じ。弱い奴をいたぶり殺すのも嫌いじゃないけど、こういうギラギラ
した連中を殺したほうが気持ちいいのよねえ」
 相手が強ければ強いほど、数が多ければ多いほど、自分が不利になればなるほど、マ
クシーの心は燃え上がる。しかしその炎は、暗く、冷たい。
「平和という名の殻に閉じこもっていたオーブにいたら、こんな気持ちは味わえなかっ
たわ。感謝していますよ、ダブルG。あたしに最高の遊び場を与えてくれた事に!」
 アサシンダガーの姿が消える。総勢十五機もの敵軍を前にして、マクシーの興奮と殺
意は最高潮に達していた。



 戦場と化したコンサート会場の中を、駆け抜ける二つの小さな影があった。影太郎
と、先程までこの会場で熱唱していたエウテルペだ。
 影太郎はエウテルペの手を握り、彼女を引っ張って走っていた。しかし、巻き上がる
炎と煙のせいで、なかなか前に進めない。
「ちょっ、ちょっと、そんなに強く引っ張らないで! それにどこに行くのよ。マネー
ジャーやスタッフのみんなと逸れちゃったじゃない。早く後を追って…」
「よせ。煙で見えないが、あっちはMSが戦っている。音を聞けば分かる」
 大人達はパニックを起こし、エウテルペを見捨てて先に逃げていた。影太郎は取り残
されていた彼女を助け、この地獄から脱出しようとしていた。
「こっちに行けば逃げられるの? 間違っていたら承知しないわよ。針を千本飲ませ
て、熱湯風呂に入れて、のた打ち回る姿を写真に撮って、ネットに載せて世界中に配信
してやるんだから」
 相変らず、容赦の無い毒舌。こんな状況でもテルペは自分を保っているようだった。
「それだけつまらない事を考えられるのなら、大丈夫だな。先へ行くぞ」
 と駆け出そうとした影太郎の眼前に、見知らぬ人影が現れた。右目を髑髏の模様を刻
んだ眼帯で隠した美少女。ミニスカートがよく似合っているが、その手には鋭い三叉の
槍が握られている。
「エウテルペのファン……じゃなさそうだな。誰だ、お前は?」
 身構える影太郎に、少女は軽く会釈して、
「こうして顔を合わせるのは初めてですね。私の名はクロナ・ギウム。偉大なる神に仕
える者の一人です」
「神、だと?」
「はい。神は望んでいます。宇流影太郎の死を。貴方達が持っている忌まわしきユニッ
トの破壊を。そして、そのエウテルペという娘の死を」
「!」
 自分の名を呼ばれたエウテルペの顔に、恐怖の表情が浮かぶ。自分を苦しめてきた正
体不明のストーカーと、クロナの姿が重なり合う。
「ま、まさか、あのストーカーはあなたなの?」
「ストーカー? そんなの私は知りません。私が知っているのは、私の神の命令だけ。
そして私は、神の望みを叶える為にここにいるのです」
 クロナは影太郎達に三叉戟の刃先を向ける。ここから逃がすつもりはないようだ。
「テルペ、お前は下がっていろ」
「えっ!? ま、まさか、あなたが戦うの? そんなの無茶よ! あいつ、普通じゃな
いわよ!」
 格闘技には素人のテルペでも、クロナが並の使い手でないのは分かる。彼女にはまっ
たく隙が無く、その殺気も凄まじいものだ。達人と言ってもいいだろう。
 それに対して影太郎は、自分と同じくらい小さいし、こんな時でも笑顔を浮かべてい
るし、まったく頼りにならない。このままでは自分も影太郎も殺される。恐怖するテル
ペだったが、
「そんなに青くなるなよ。お前は俺が守ってやる。お前の歌はもう一度聞きたいから
な」
 影太郎はテルペを励ました後、クロナを睨みつける。クロナも左眼だけだが影太郎を
睨む。
「クロナとか言ったな。お前には色々訊きたい事がある。俺が勝ったら答えてもらう
ぞ」
「それは私の神の望みではありません。それに私は負けません」
「どうかな? 勝負ってのは、やってみなきゃ分からないと思うぜ。特に俺みたいに、
知恵と勇気と根性を持っている奴を相手にした場合はな」
「知恵も勇気も根性も、偉大なる神の前では無力に等しい。それをあなたの死をもって
教えてあげましょう」
 槍を構えるクロナに対して、影太郎も小さなナイフを取り出す。影太郎にとって厳し
い戦いになるのは、誰の目にも明らかだった。



 影太郎とクロナの戦いが始まったちょうど同じ頃、四人の男女がマチルダに近づいて
いた。
 メンバーはミステリウス・マゴットと、彼女に忠誠を誓った少女ポーシャとその手下
二名。戦闘による混乱で誰もがパニック状態に陥っている中、四人は誰にも気付かれる
事無くマチルダに潜入した。
 ジブラルタルの時は邪魔者がいたせいで失敗したが、今回はマクシーが敵の目を引き
付け、クロナがこの飛行船に戻ろうとしている連中を食い止めているはず。今のマチル
ダにいるのは、留守番をしているあの女だけ。
「あらあら。誰が来たのかと思えば、どこかで見たネズミが四匹。まだ生きていたの
ね」
 それは出来る事なら、一生聞きたくなかった声だった。マチルダの扉を開けたポーシ
ャに対して、待ち構えていたエレア・クーウェルは鋭く冷たい視線を浴びせた。
 エレアの隣には、マチルダで待機していたレウもいた。犬嫌いのエウテルペに気を使
って残っていたのだが、そのお陰でレウはマチルダに近づく敵の臭いに気付き、エレア
は敵を待ち構える事が出来のだ。人生、何が幸いするか分からない。
「ネズミさん達、またぶちのめされに来たの? 以前、見逃してあげた時、私、言った
わよね。次に会ったら容赦しないって。あんな大事なことを忘れちゃったのかしら? 
お姉さん、悲しいわ」
 からかうように言うエレア。一度勝っているので、余裕の表情だ。
 対するポーシャの脳裏にはジブラルタルでの悪夢のような記憶が甦る。四人がかりで
もまったく敵わず、文字どおりコテンパンにされ、やっとの思いで逃げ出したあの日。
殴られ、蹴られ、投げ飛ばされた痛みが体中に甦る。
 震えるポーシャと子分二名。だが、
「…………蟲、またいたんだ」
 マゴットは臆する事無く前に出た。相変らずその眼は虚ろだが、漂わせている雰囲気
は、今までとは何か違う。エレアに怯えまくっているポーシャ達とは逆に、マゴットは
エレアを見ても平然としている。それどころかニッコリと微笑んだ。不気味な笑顔だっ
た。
「蟲、蟲、虫、ムシ。マゴット達を苛めた虫。悪い虫。嫌な虫。そういう虫はいちゃダ
メ。だから殺すの。私が、この手で」
 マゴットが歩を進める。敵が動いたので、エレアも自然に前に出る。
「マ、マゴット様、下がってください! その女は…」
 ポーシャの叫びが終わる前に、少女と女は同時に走り出した。その目に映っているの
は互いの姿のみ。聞こえるのは互いの息遣いと、体が風を切る音のみ。



 アサシンとは暗殺者の意である。
 闇に潜み、陰に隠れ、決して己の姿は見せる事無く、標的に気付かれる事無く、その
命を奪う。それがアサシンだ。
 その名を与えられたMSも、そういう戦い方をする為に作られている。ミラージュコ
ロイドによって肉眼だけでなくレーダーからも姿を隠し、気付かれぬよう敵に接近して
ナイフで切り裂く。それがアサシンダガーの唯一の戦法だった。
 しかし、今、夏達が戦っているアサシンダガーは、その名前とはまったく逆の戦い方
をしていた。大勢の敵に囲まれても逃げようとせず、数に勝る敵を次々と切り裂いてい
る。ミラージュコロイドを使って姿を消したりしているが、それはほんの一瞬である。
一瞬だけ姿を消す事で敵の目を、心を惑わせ、隙を作らせた後にミラージュコロイドを
解除して、鋭いナイフで切り裂く。
 これは暗殺者の戦い方ではない。戦士の、いや、そう呼ぶには卑劣すぎるか。戦士で
も暗殺者でもない戦い方。これはアサシンダガーを操る、マクシー・ミガゲノという男
ならではの戦い方なのだ。
 七体目のストライクダガーが操縦席をナイフで貫かれた。残りはストライクダガーが
五体と、ケンタウロス、ディン、白いジン。無傷な機体は無く、どの機体にもナイフの
跡が刻み込まれている。
「つ、強い……!」
 夏は戦慄していた。目の前にいる敵は今まで戦った敵の中で一番、いや、もしかした
ら、あのキラ・ヤマトや叢雲劾より強いかもしれない。数でも機体性能でも劣っている
のに、それをまったく問題にせず戦っている。姿を見せたり隠したりする戦い方は嫌い
だが、その強さだけは認めなければならない。
『ケンタウロスのスピードでは、あのMSにはついていけないでござる。どうすれば…
…』
 ここが砂漠ならバクゥの体を下半身とするケンタウロスに分があるのだが、あいにく
ここは大西洋連邦の軍事基地のすぐ近く。地面は整理されており、二本足のMSにとっ
ては最高の環境だ。
 スピードでは敵の方が上。ミラージュコロイドを利用した戦法には、まったく歯が立
たない。このままでは全滅する。
「おいおい、十二機の、いやジャンク屋のも入れれば十五機のMSがたった一機の、し
かもあんなポンコツに全滅させられるなんて、どんなギャグだよ」
 エドが苦笑混じりに呟く。その上、こちらのパイロットは地球連合でも指折りのエリ
ートパイロットなのだ。負ける要素は一つも無いはずなのに、戦況はこちらが圧倒的に
不利。こう考えている間にもアサシンダガーは姿を消して、また一機のストライクダガ
ーを切り刻んだ。残るはケンタロウス達も入れると九機。
「ついに一ケタ台に突入か。こりゃマジでヤバイな……」
「エド、弱気になるな! こういうのは弱気になった方が負けだ!」
「そうは言うけどよ、ジョニー。お前、あのバケモノを何とかする方法はあるのか?」
「うっ……」
「ジェーンは?」
「無いわ。水の中の戦いなら負けないつもりだけど、ここじゃちょっと」
「陸に上がったカンパってやつか。困ったもんだ」
 カンパではなく河童なのだが、誰もツッコミは入れなかった。死と敗北の予感を前
に、それどころではなかったからだ。
「ラグナス殿、キャリー殿も気を付けるでござる。敵はどこから狙ってくるか分からん
でござ…」
「グワアアアアアアアッ!」
「ラグナス殿!?」
 助けようとした夏だったが、もう遅かった。ラグナスのディンはアサシンダガーのナ
イフの餌食となり、両翼と両腕、ついでに両足を切り落とされた後、地に落ちて、爆発
した。
「ラグナス……殿……」
 仲間の敗北に呆然とする夏。その隙を見逃すマクシーではなかった。
「あら、お間抜けちゃん発見♪ それじゃあ、いただきまーす!」
 アサシンダガーの姿が消える。だが、すぐに現れた。場所は隙だらけのケンタウロス
の背後!
「逃げろ!」
 ジャンの叫びが届いた時、夏はようやく我を取り戻した。しかしその時には、アサシ
ンダガーのナイフはケンタウロスの操縦席に振り下ろされようとしていた。誰もが、夏
自身でさえ自分の最期を予感したその時、基地の方から一閃の光が走った。
 光はアサシンダガーに向かって一直線に伸びてきた。身の危険を感じたマクシーは、
いち早くその場を飛びのく。光はアサシンダガーがいた場所を通り過ぎて、彼方へと消
えていった。
 命拾いした夏のケンタロウスは、白いジンの側に駆け寄り、ジャンと通信を交わす。
「今の光はビームでござるな。基地の方々が拙者達を助けてくださったのでござろう
か?」
「それにしては狙いが雑だった。一歩間違えれば君もビームに焼かれていたぞ」
 ジャンの言うとおり、ビームの照準はおせじにもいいものではなかった。ほんの少
し、下にずれていたら、夏のケンタロウスの上半身は消えていただろう。
 危険なビームを放った機体が、基地の方からやって来た。MSだった。体色は緑で、
頭部はストライクやレッドフレームなどに似た形状をしているが、少し細い。武器は手
に持った大砲と盾の他、胸部に大型のビーム砲を装備している。
「あれは連合軍の新型機でござるか?」
 教導隊に新型の機体が配備されているのは珍しい事ではない。最新の機体に最高のパ
イロットを乗せてデータを取るのは当然だ。しかし、
「動きがおかしいでござるな。どうも嫌な予感がするのでござるが」
「奇遇だな。俺もだ」
 ジャンと夏の心が重なった。二人とも、まるで疫病神に取り付かれたような気分だっ
た。



 クロナが持つ三叉戟という武器は、その名のとおり、刃先が三叉に分かれた槍だ。普
通の槍より刃先が広がっており、それ故に死角が無い。しかし使いこなすには相当の熟
練が必要で、使い手を選ぶ。
 この難物をクロナは軽々と使いこなしていた。連続で繰り出される突きは刃先が広い
為、影太郎はかわし切れず、体の各所に切り傷を作っていた。傷付いた体から流れ出て
いく血の量は増えている。致命傷になる一撃だけは避けているが、このままではいずれ
捕まり、体を貫かれるだろう。
 反撃しようにも影太郎の武器はナイフ一本だけ。三叉戟とはリーチに差がありすぎ
て、勝負にすらならない。
 二人の戦いを、エウテルペは呆然と見ていた。影太郎が殺されれば、次は自分の番
だ。死の恐怖に口は凍りつき、心も闇に落ち込んだ。口が開かないので得意の毒舌も語
られず、歌も歌えない。彼女は無力だった。
「あ、あ……」
 震えるテルペに影太郎は、
「心配するな。俺が何とかしてやる」
 と、笑顔を見せて元気付ける。自分の方が大変な目に合っているのに、影太郎はテル
ペの事を気遣っている。
「大した余裕ですね。神の刃を前にしてその余裕、気に入りません」
 不満を露にしたクロナにも、影太郎は微笑を浮かべる。これは相手を元気付ける為の
笑みではない。諦めていない事を、闘志が折れていない事を示す為の笑みだ。
「神か。生憎だが俺は無神論者でね。それに俺は、自分を殺そうとしている奴を神と崇
める程、寛大にはなれないんだよ」
「愚かな。その愚劣さが今の災いを呼んでいるのです。いえ、愚劣なのはあなただけで
はない。争い、憎み合い、殺し合う全ての人々、そしてこの世界そのものが愚劣で醜
い。だから神は裁きを下す。その時は近い」
「神の裁きだと? それってまさか、人類皆殺しとか言うんじゃないだろうな」
 影太郎は冗談のつもりで言ったのだが、
「よく分かりましたね。そのとおりです。愚劣な者にも、自らの運命を悟るくらいの知
能はあるのですね」
「おいおい、マジかよ……」
 最初、影太郎はクロナの言葉を疑った。当然だろう。人類全滅など、考えるだけでも
どうかしているとしか思えないのに、それを本気で実行しようとする奴がいるなんて信
じられない。
 しかし、クロナの目は本気の光を放っていた。少なくともクロナはそのつもりだ。神
とやらが人類皆殺しを命じたら、クロナはためらう事無くその命に従い、人を殺すだろ
う。今、影太郎達を殺そうとしているように。
「その神様、マジで人類全滅なんて考えているのなら、それは神じゃない。悪魔だ」
「愚劣なあなたがそう思うのは当然です。一つの宗教の神が、他の宗教では悪魔にな
る。真理に気付かない愚かな人間がよくやる事ですから」
「真理だと? 人を殺し尽くすのが真理だと言うのか!」
「そうです。人はそれだけの罪を重ねてきた。放っておけば、更に罪を重ねるでしょ
う。そうなる前に全ての人は死ぬべきなのです。神の裁きを受け入れて、体を捨てて、
魂を救ってもらう。それが人の贖罪。そうする事で全ての人は楽園の扉を開ける事が出
来る」
 罪。神の裁き。贖罪。楽園。どれも神の使いを名乗る者達が、よく口にしていた言葉
だ。古代の宗教を調べたアルベリッヒ・バーネットの記憶が警告する。信じるな、と。
人が信じるべきものは神ではないのだ、と。
「ああ、まったくそのとおりだ。珍しく気が合うじゃないか、アルベリッヒ・バーネッ
ト!」
 影太郎は怒っていた。彼は自分を殺そうとしているクロナという人間が嫌いではなか
った。この少女はとても純真で、だから傷付き、神に救いを求めたのだろう。憎むべき
は相手は、倒すべき敵は、クロナに妙な事を吹き込み、操っている神とやらだ。
「今まで俺達を襲っていたのは、その神とやらの命令か」
「そうです。神は私達に命を伝えました。エウテルペという少女を殺せ、それを邪魔す
る者も殺せ、と」
「!」
 自分の名を呼ばれたエウテルペは、恐怖で打ち震えた。殺される。死にたくない。毒
舌を吐いていた頃とはまったく違う、弱気になった少女の顔は、影太郎の怒りを更に増
した。
「素晴らしい歌を歌ったこの子に何の罪がある? この子が神様を怒らせるような事を
したのか?」
「知りません。私はただ、神の命を実行するのみ」
「ふうん。だったら、誰かが神様の名を騙って命令しても、お前はそれをやるんだ。そ
んな事をしたら神様が怒るんじゃないのか?」
 影太郎は皮肉で言ったつもりだったが、その言葉はクロナの心に突き刺さった。確か
に今回の命令は変だ。暗殺の命令は今までにも下った事はあるが、エウテルペのような
単なる歌手を殺せという命令は今まで無かった。ラクス・クラインのように大物の政治
家と繋がっているわけでもなく、自分の意志で行動するほど賢くもない。そんな愚かな
少女の死を、神がわざわざ望むだろうか?
『まさか……歌依吟が!?』
 今まで漠然と抱いてきた疑問が、一気に噴き出した。神の命を欺き、自分の目的の為
に利用する。それは絶対に許されない事だ。
 クロナが疑問と怒りに身を震わせている間に、影太郎はポケットから小さな注射器を
取り出した。その中には禁断の薬が入っている。亡き友からも「使うな」と忠告され
た、恐ろしい薬。残り少ない影太郎の寿命を更に縮める薬。影太郎も使いたくはない。
だが、
「か弱い女の子が震えている。助けを求めている。使う理由はこれで充分だろ、ヴェイ
ア」
 しかし、この薬の力だけでは勝てない。だから策を練る。クロナの隙を付く為の策
を。
 黒い煙がコンサート会場そのものを覆い尽くそうとしている中、影太郎は数個の石礫
(いしつぶて)を拾い上げた。そして煙の中に身を隠す。
「……愚かな。姿を隠す程度で私に勝てると思っているのですか」
 クロナは吟への疑念を押さえ込み、戦いに集中した。影太郎の姿は煙に隠れて見えな
いが、気配は伝わってくる。エウテルペを残して逃げるつもりは無いらしい。
 この隙にエウテルペを殺すべきか? いや、エウテルペに刃を向ければ、その隙に影
太郎が向かってくるかもしれない。それにエウテルペを殺す事が本当に神の意志なのか
どうか、確かめる必要がある。
『まずは目下の敵から始末します』
 クロナは気を落ち着けて、影太郎の気配を探る。素早く動いているらしく、確実な位
置は掴めない。
 風切り音が聞こえた。即座に身をかわす。ビシッという音と共に、今までいた場所の
地面に小石がめり込んでいた。影太郎が、姿を隠す前に拾った石礫を投げてきたのだ。
土にめり込むほどの威力とは、当たれば無事ではすまないだろう。
 礫の速度は速く、威力も高い。しかしクロナも達人だ。どこから来るのかさえ分かれ
ば、つまり礫の風切り音さえ聞こえれば、避ける事も、三叉戟で防ぐ事も出来る。
 五発目の礫をかわしたクロナは、影太郎の考えを推理した。このまま石を投げ続けて
もクロナに当たるとは思っていないだろう。石はこちらの気を逸らす為のオトリ。本命
は、
『来た!』
 今までとは違う風切り音。空気をも切り裂くかのような鋭さを感じさせる音。
 それとほぼ同時に、地を走る足音が聞こえた。黒い煙の中をまったく迷わず、一直線
に死地へと向かってくる。
 ナイフを投げた後、影太郎自身も突撃するという二段攻撃。ナイフをかわしても、そ
の隙に影太郎がクロナの懐に潜り込み、一撃を叩き込む。よく考えられた攻撃だ。
『ですが、所詮は子供の浅知恵』
 影太郎の足の速さは、ナイフが飛ぶ速さより少し遅い。投げる時に力を入れすぎたの
だろう。
 クロナは落ち着いて対処した。ナイフを三叉戟で弾き飛ばし、遅れてやって来た影太
郎に戟の刃を向けて、突き刺そうとする。
「ちっ!」
 間一髪、影太郎は戟をかわした。そして地に落とされたナイフを拾い上げ、再び煙の
中に姿を隠した。その姿は必死すぎて、無様なものだった。
「その程度の知恵と力で神に逆らおうとは。滑稽ですね」
 せめて次の一撃で楽にしてあげよう。クロナは慈悲の心で、影太郎を殺す決意を固め
る。
 風切り音が聞こえた。ナイフではなく石のものだ。クロナはわずかに体を動かしただ
けで、石をかわした。
 クロナに石を投げても当たらない。それは影太郎も分かっているはずだ。ならばどう
する? ナイフを持って無謀な接近戦を挑んでくるか、それとも……。
 考えている内に、再び風切り音が。今度も石のものだ。無駄な事をする、と思いつつ
クロナがかわそうとしたその時、新たな風切り音が聞こえた。ナイフの鋭い風切り音だ
が、
『方向が違う、上へ投げた!?』
 たった一つの武器をなぜ上へ? 迷っている間に石の風切り音が迫る。
「くっ!」
 三叉戟で石を弾く。しかしその直後に影太郎がクロナの眼前に立っていた。先程とは
比較にならないスピードだ。
「そ…」
 そんなバカな、と言う前に、いや思う前に、影太郎の拳はクロナの腹にめり込んでい
た。
「女の子を殴るのは趣味じゃないんだが、あんたは手加減して勝てる相手じゃないから
な」
 その拳はクロナに激痛を与え、地に伏せさせるのに充分な威力を持っていた。クロナ
は痛みに耐え切れず三叉戟を手放し、そして意識を失った。影太郎の勝利だ。
 しかし勝利した影太郎のダメージも大きかった。体の各所から痛みが伝わってくる。
それはクロナに受けた傷だけによるものではない。
「ちっ、やっぱりあの薬を使うのはキツいな……」
 肉体機能を瞬間的に高める劇薬。もう使わないとヴェイアに誓った薬だったが、その
誓いが無くても、もう二度と使いたくなかった。使う度に反動が厳しいものになってい
く。これ以上使えば、本当に死ぬかもしれない。
 しかし、今回は使わなければならなかった。そうしなければクロナに勝つ事は出来な
かっただろう。
 最初に煙に隠れた時に薬を注射して、全力で石礫を投げる。当たるとは思っていなか
った。あの礫はクロナに石礫でも油断できない一撃だと思わせ、警戒させる為に投げた
のだ。
 案の定、クロナは石礫を警戒し、より集中力を高めてくれた。あの時のクロナは風切
り音のみで石礫とナイフを区別して、影太郎の第一の奇襲もかわした。だが、これも影
太郎の計算の内だった。全力で走ろうとする体を押さえ込み、わざと減速して(それで
もかなりの速さだったが)、クロナに自分の全力疾走はこの程度だと思わせた。
 ここまでの伏線を張ったからこそ、第二の奇襲が成功したのだ。風切り音に対して必
要以上に警戒するようになったクロナは、影太郎がナイフを上へ投げた事に気付いてし
まい動揺し、影太郎の全力疾走に対応できず、とどめの一撃を受けた。
 端から見たら回りくどすぎるようにも思えるが、達人を相手にするなら、ここまで手
を尽くさなければ勝てない。影太郎が宿しているアルベリッヒ・バーネットの記憶は、
そう教えてくれた。
『あんたが昔、槍の達人相手に一本取った記憶が無かったら勝てなかったな。ありがと
よ』
 影太郎は自分の記憶の中にいる男に、素直に感謝した。
「あ、ああ、あ……」
 この戦いを見ていたエウテルペは言葉に詰まっていた。まさか影太郎が勝つとは思わ
なかった。勝利と生存を喜ぶ気持ちが、少女の体の中を激しく駆け巡っていた。
 気持ちを表せない少女に、影太郎は優しく微笑んだ。いい笑顔だった。
「何とかなったな。それじゃあマチルダに戻るぞ。エレアと合流して…」
「! か、影太郎、後ろ!」
 激しく驚くエウテルペの顔を見て、影太郎は振り返った。気絶したはずのクロナが立
ち上がり、こちらをじっと見ている。その目は今までのクロナとはまったく違う、まる
で別人のように鋭く、そして冷たい目だった。
 立ち上がったクロナは、右目を隠していた眼帯を取った。オレンジ色の瞳を宿した眼
球が姿を現す。いや、あれは本物の眼球ではない。本物より強い光を放っている。どう
やら義眼のようだ。
「いやあ、驚きましたよ。ラッキーがあったとはいえ、君のような子供がクロナに勝つ
なんてねえ」
 声は同じだが、今までのクロナとは違う口調だった。雰囲気もまったく違う。それに
自分(クロナ)の事を他人事のように言っている。
「久しぶりの外ですね。ホント、何年ぶりだろう。クロナがあのクソ神に従うようにな
ってから、僕は滅多に外に出られなくなってしまいましたからね」
 クロナは、いや、今までクロナだった人(モノ)は、周囲を見回す。燃え盛るステー
ジ、ひび割れた大地、沸き上がる黒煙。遠くからはMS達の激突音と破壊音が聞こえて
くる。
「いい世界だ。僕が出るには相応しすぎる世界ですよ。こんな世界に降臨させてくれる
なんて、影太郎君には感謝しますよ」
 そう言ってクロナは深々と頭を下げた。しかし、まったく敬意は感じられない。影太
郎は警戒を解かず、クロナに質問をする。
「クロナ、いや、クロナの体を借りている奴。お前は誰だ?」
 そう聞かれたクロナは、ククッと笑った。
「わざわざ尋ねなくても、君の中に答えはあるのでしょう? 君は賢いから」
「…………」
「そう、お察しのとおり。僕はもう一人のクロナですよ。僕とクロナは二重人格なんで
す」
 二重人格。一人の人間がまったく別の人間の心と人格を持つという、精神の病の一
種。物語などではよく目にするが、実際に会うのは初めてだった。アルベリッヒの記憶
にも、二重人格者に会ったという記憶は無い。
『それはちょっと新鮮な気持ちかも、って言ってる場合か』
 人格が変わったクロナからは、よく分からないが危険な空気を感じる。態度は丁寧だ
し武器も持っていないのに、まるでマシンガンを向けられているような威圧感。対峙し
ているだけで汗が吹き出てくる。
「僕の名前はミスト。これからはそう呼んでください。自分で付けた名前だから恥ずか
しいですけどね」
 妖しく笑うクロナ、いやミスト。敵意は感じられないが、油断は出来ない。緊張する
影太郎と怯えるエウテルペに、ミストは妖しくも親しげな笑みを見せる。
「そんなに怖がらないでください。今、君達を殺すつもりはありません。抹殺命令は嘘
だったようだし、たとえ本物でも僕はクロナと違って、あのクソ神に従うつもりなんて
ありませんから」
「お、お前は……神とやらが嫌いみたいだな」
 影太郎の喉は緊張のあまり渇き切っていた。唾を飲み込み、わずかに喉を潤して、声
を絞り出す。そんな影太郎にも、ミストは妖しい笑みを向ける。
「ええ、大嫌いてすよ。いくら世話になったとはいえ、あんな奴の為に命を投げ出そう
とするなんて、クロナはどうかしています。クロナが死んだら僕も死ぬんだから、体は
大切にしてもらいたいですね」
「神とやらが嫌いなら教えてくれ。クロナが従っている神とは誰だ? そいつは本当に
人類を滅ぼそうとしているのか?」
「うーん、答えてあげてもいいんですけど、僕が話したとクロナに知られたら怒られま
すからねえ。そういう事は彼に聞いてもらえませんか?」
 そう言ってミストは、影太郎達の後ろを指差した。その方向にあった煙の中から、一
人の少年が現れた。手には銃を持っており、その照準はミストに向けられている。
「ふふっ、怖い怖い。どうやらアンノンの一員のようですね。もし僕が影太郎君達を襲
っていたら、その引き金を引くつもりだったんですか?」
「ええ、そのつもりです」
「彼は君達の組織にとって、重要な人物なんですか?」
「上の考えじゃない。これは僕の意志です」
「ほう……」
「君にとって、影太郎君は守るべき人なんですか?」
「いや。ママが守ってほしかったのはエウテルペさんだったし、僕は彼が嫌いですか
ら」
 本人がいるのに、はっきりと言うマルコ。豪胆な面もあるようだ。
「でも、この人には興味がある。この人が、宇流影太郎という人がこれから何をするの
か、何が出来るのか、ちょっと見てみたいんですよ」
 それはマルコにとって、生まれて初めての感情だった。組織と母の為だけに生きてき
た少年の中で芽生えた『他人への興味』。それが思慕に変わるのか、それとも憎悪にな
るのかは分からないが。
「ふむ。面白いですね。君も、そして影太郎君も」
 ミストは二人の顔を見比べた後、背を向けた。
「今日のところは引き上げますよ。次は戦場でお会いしましょう。お互いに、それぞれ
の魂に相応しき力を持ってね」
 そう言ってミストは黒煙の中に消えていった。その名のとおり、霧のように掴み所の
無い人物、いや人格だった。
 ミストが消えると同時に、場の空気も和らいだものになった。力の抜けたエウテルペ
は腰を降ろしたが、影太郎は立ったまま、マルコに質問した。
「マルコ、お前は一体何者だ? それにクロナ、いやミストが言っていた事は一体…」
「その話は後で。ほら、あなたのお友達が来ましたよ」
 マルコが指を向けた方から、一匹の犬が駆けて来る。マチルダに帰していたレウだっ
た。
「ワン、ワンワンワンワン!」
 吠え方がおかしい。マチルダで何かあったようだ。
「まさかエレアが……。マチルダに戻るぞ! マルコ、テルペ、お前達も来い!」
「ちょっ、ちょっと待って、テルペ、立てない……」
 どうやら腰に力が入らないらしい。影太郎とクロナの戦いの緊張だけでなく、ミスト
の得体の知れない空気も浴びせられたのだ。普通の子供にあれを耐えるのは無理だろ
う。
「ったく、しょうがないなあ」
 そう言って影太郎は、エウテルペを背中に背負った。そしてそのまま、全速力で駆け
る。マルコとレウも後を追う。
「キャッ! ちょっ、ちょっと、もう少しゆっくり走りなさいよ! デリカシーのない
男ね、まったく……」
 そう言うエウテルペだったが、その顔は少し嬉しそうだった。



 アサシンダガーに倒されそうだった夏を救った謎のMS。その姿を見たエド達は、敵
の襲来時以上に驚いた。あれはまだ、誰も手に触れてはならないはずのMSだからだ。
「あれはカラミティじゃないか! OSがまだ完成していないって聞いてたけど、もう
動かせるのか?」
 エドはジョナサンにそう尋ねるが、ジョナサンも首を傾げている。
「いや、俺の聞いた話だと、まだ未完成のはずだ。武装もまだ完全には取り付けていな
いようだし」
 そのとおりだった。カラミティの背部にはあるべきはずの武器が、125mm2連装高
エネルギー長射程ビーム砲《シュラーク》が無かった。
「じゃあ未完成の機体で出て来たっていうの? 殺されに来たようなものじゃない。そ
んなバカが教導隊に、あんた達の他にもいたの?」
「キツイなあ、ジェーン。けど、確かにそうだな、俺とジョニー以外であんなバカな事
をする奴がいるなんて思えない。一体、どこの誰なんだ?」
 疑問に思うエド。夏とジャンも、このカラミティが敵か味方か分からず、動けなかっ
た。それはマクシーも同じで、攻撃の手を休めていた。
「ふん。あたしの遊びの邪魔をするなんて、どこの悪い子ちゃんなのよ。ちょっと怖そ
うだけど、オシオキが必要ね」
 再びアサシンダガーの姿が消えていく。が、完全に消える前にカラミティが動いた。
腹部にある580mm複列位相エネルギー砲《スキュラ》から強烈な光が放たれる。先
程、夏を助けた(?)あの光だ。アサシンダガーの装甲では、これ程の威力のビームに
は耐えられない。
「くうっ!」
 悲鳴を上げながら、マクシーはアサシンダガーを動かし、ビームの光を避けた。しか
しカラミティの攻撃は止まらなかった。《スキュラ》だけでなく、右腕に持った337
mmプラズマサボット・バズーカ砲《トーデスブロック》と、左腕に装備された盾に設置
されている115mm2連装衝角砲《ケーファー・ツヴァイ》を一斉発射。撃って撃って
撃ちまくっている。
「ちょっ、ちょっと、何なのよ、こいつは! 敵も味方もお構いなしってやつ?」
 さすがのマクシーも、この無差別攻撃には動揺した。何とかしようにも何も出来な
い。遠距離用の武器を持たないアサシンダガーは、逃げるのが精一杯だ。
 この機を逃す夏とジャンではない。姿を隠す事さえ忘れたアサシンダガーを左右から
挟み撃ちにして、
「もらった!」
 ジャンのジンの銃がアサシンダガーの左腕を破壊した後、
「はあっ!」
 ケンタウロスの《タイガー・ピアス》が右腕を切断した。
「くっ、な、何て悪い冗談なのよ。このあたしが負けるなんて、そんな……!」
 悔しがるマクシーだが、アサシンダガーの武器はナイフのみ。両腕を失ってそれが持
てなくなっては、どんなにマクシーが優秀なパイロットでも、戦う事は出来ない。それ
にカラミティの乱射はまだ続いている。長居は無用だ。
「ふん。ま、作戦は終わったみたいだし、これ以上、吟の為に戦う義理も無いわね」
 使徒である自分には重要な役目がある。マクシーは自分にそう言い聞かせて、敗北を
受け入れた。
「使い古された言葉だけど、言わせてもらうわね。今日のところは見逃してあげる。次
に会った時があなた達の最期よ!」
 雪辱を誓ったマクシーを乗せたアサシンダガーは、ミラージュコロイドでその姿を消
して、去っていった。来た時と同じく、まったく気配を感じさせない、見事なまでの撤
退だった。
 一方、暴れまくっていたカラミティは、ようやくエネルギーが尽きたのか、動きを止
めてくれた。その場にいた全員がホッとした時、カラミティの操縦席の扉が開き、小さ
な女性が出て来た。
「うっ……。な、何が『大西洋連邦の最高傑作とも言うべき素晴らしいMS』よ。ルキ
ーニの奴、この私でも手に負えないようなジャジャ馬を紹介するなんて……。うう〜〜
〜〜〜〜」
 カラミティのあまりの操縦性の悪さに、女は胃液を吐いてしまった。今、世間を騒が
せているMS専門の大泥棒、怪盗レインボースターとは思えない姿だった。
「同情すべきなのか、感謝すべきなのか、分からないでござるな」
「今はそっとしておこう。この場合、それが優しさというものだ」
 ジャンの言うとおりだと誰もが思った。さすが大人である。



 ラグナスが乗っていたディンはアサシンダガーに破壊されたが、幸いラグナスは無事
だった。頑丈な体と、間一髪で操縦席への直撃を避けた『勘』のおかげだった。サイボ
ーグらしいといえばらしい生還である。
 しかし、ラグナスが守る事を誓った女性、エレアは無事ではなかった。右腕の骨を折
られ、顔には大きなアザが出来ている。
「やられたわ……。一度倒した相手で、小さな女の子だと思って油断していたわ……。
ううん、油断していなくても敵わなかった。あの子の強さ、半端じゃなかった……」
 マチルダに入り込んだ敵を迎え撃とうとしたエレアだったが、以前倒した相手に負け
たらしい。しかも相手は女の子だったという。
「ミステリウス・マゴット……。影太郎、気を付けなさい。あの子は強くなる。今より
もっともっと強くなる。恐らくMSの操縦技術も。早く倒さないと、手がつけられない
強敵になるわよ」
 ベッドに寝かされながらも、エレアはマゴットの恐ろしさを伝えた。マゴットについ
ては、今まではおかしな事を言う女の子程度にしか思っていなかった。しかし、なかな
かの強者であるエレアに重傷を負わせるほどに強くなっているとは。
「クロナとミストだけでも厄介なのに、急成長したマゴットに、夏達も苦戦したほどの
MS乗りもいる。それに宇宙では不動剛馬も待っている。前途多難だな」
 敵の強大さに、さすがの影太郎もため息をつく。しかし、挫けている暇は無い。
 今回の事で、敵はマチルダを調べ上げ、マチルダにGGユニットが無い事を知った。
ならば次はGGユニットを持っているロウ達が狙われるだろう。一刻も早くロウ達と合
流し、助けなければならない。
『いや、ダメだ。今のままで合流しても、ロウ達の力にはなれない』
 エレアは重傷。影太郎も負傷しているし、激薬を使ったダメージは大きい。MSもラ
グナスのディンは破壊され、ケンタロウスと白いジンも損傷している。シャドウ・セイ
バーズはボロボロの状態だった。
 傷を癒さなければならない。いや、癒すだけではない。これからの戦いに備えて、自
分達はもっと強くならなければならない。
「オーブに行くぞ」
 マチルダの操縦室に集まった一同に、影太郎は宣言した。
 オーブ連合首長国。南太平洋に浮かぶ島国で、世界でも有数の技術大国。今回の戦争
では中立を宣言しているが、その戦力は侮れないものを持っている。
「あの国にはアルベリッヒ・バーネットの友がいる。弟子もいる。彼らの力を借りる」
 影太郎はアルベリッヒの記憶と人脈を嫌っていた。しかし、もうそんな事を言ってい
る場合ではない。敵は強大で、その目的は凶悪極まりないものだ。人類滅亡など許さな
い。絶対に阻止してみせる。それが影太郎の正義だ。
 それに影太郎の心の中では、アルベリッヒの記憶が完全に目覚めようとしている。そ
れは影太郎も望んでいる事だった。アルベリッヒの持つ知識と技術は影太郎が力を得る
為には必要だったし、影太郎はアルベリッヒという男をもっと知りたかった。
 許されざる悪行をしたくせに、誰よりも優しく温かな心を持っていた男。彼の心を知
れば、自分の中で何かが変わる。そんな気がするのだ。だから会いたい。アルベリッヒ
の事をよく知っている人に。
「ジャン・キャリー、あんたの力も借りるぞ。あんたが研究していたパワーローダー、
改良して使わせてくれ」
「構わんよ。いや、むしろ私の方からお願いする。私を救ってくれた君達の力にならせ
てくれ」
 固い握手を交わす影太郎とジャン。その様子を、客として迎えられたマルコが不機嫌
そうに見ていた。
「仲良しごっこなんて、やってる場合じゃないと思うんだけど。君達の敵は強いんだ
よ」
 そして影太郎達は、マルコから自分達の敵の名を知らされる。ダブルG。神の中の
神、神を超えた神、人類だけでなく全ての生命の死を願う邪神。敵の名を知り、意気上
がる影太郎達だったが、それに冷や水を浴びせるような報せが届けられた。
「そんなバカな! ナインが、そんな……」



 エウテルペのコンサートは大失敗に終わった。ステージは破壊され、近くにあった軍
の基地もメチャクチャにされた上、多くの死傷者を出してしまった。大西洋連邦にとっ
て、悪夢のような事件だった。
 もっとも、エウテルペにとっては、この事件は悪い事ばかりでもなかったようだ。事
件の後、彼女の部屋の写真立てには、いつの間に撮っていたのか、影太郎の顔写真が収
められていた。
 しかし軍にとっては散々なものだった。この事件で教導隊はその評価を落とし、生き
残ったエド達は再訓練を受ける。またストライクダガーもこの戦いで様々な欠点が分か
り、それを改める為、再調整が行なわれた。レインボースターが持ち出したカラミティ
も、致命的なダメージは負わなかったが無茶な戦闘をさせた為、機体のフレームやビー
ム兵器が損傷してしまい、完成が遅れてしまった(ちなみにレインボースターは「あの
バカの顔を見たら、もっとロクな事にならないわ!」という捨て台詞を残して、姿を消
していた)。
 その結果、大西洋連邦のMS開発は少し遅れる事になった。当初の予定ではストライ
クダガーはアラスカの連合軍本部の防衛隊に配備されるはずだったのだが、それは見送
られ、パナマに配備された。しかし、これによって大西洋連邦は貴重なMSをサイクロ
プスの餌食にせずに済んだのだから、皮肉な結果である。
 しばらく後にクルーゼにそう言われたアズラエルは、
「いえいえ、これも予定どおりですよ。大西洋連邦のMS開発は順調すぎましたから
ね。少し躓かせる必要があったんですよ。とはいえ、ちょっとやりすぎたかもしれませ
んね。後始末も大変でしたよ」
 と、笑って言った。全ては計画通りだったのだ。ダブルGとアズラエル、そしてもう
一人の。
 世に絶望を広め、それを歌にしようとする男、歌依 吟。影太郎達の戦いが終わった
頃、吟はクロナを怒らせた事も知らず、とある病院の病室にいた。そしてベッドで眠っ
ている男の顔を見て、ニヤリと笑う。
「お前にはもう少し働いてもらうぞ。更なる絶望を呼ぶ為に。そしてあの小生意気な連
中に、真の絶望を教える為に!」
 興奮を隠せない吟とは逆に、ナイン・ソキウスは静かに眠っていた。病院から秘密裏
に連れ出されても、彼は眠り続けた。まるでこれから始まる死闘に備えるかのように。

(2007・9/8掲載)
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